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寺めぐりコース(徒歩・くるま3時間)

 

島原ならではの風情あふれる 城下町のたたずまい、歴史散策コース(徒歩・くるま 3時間)

寺めぐりコース
 

(1)江東寺「ねはん像」

ねはん像
江東寺はもともと、永緑1年(1558年)有馬晴信の弟・宣安明言和尚が北有馬・田平に開山しました。
その後、新城主・松倉重政が島原城を竣工させると、その地を城下町郊外の今村に移し、寛永1年(1624年)新城主・松倉重政はここを菩提寺と定め江東寺と改められました。

島原大変でこの寺も崩壊流失の被害にあい、8年後現在地に建立されました。
現在の白土湖の底がかつての墓地だったようです。
この再建を祝って文政11年(1828年)奉納されたものが「ねはん図」で、有形文化財に指定されています。豊後(大分県)の貞寿尼僧が3年がかりで製作したもので、縦3.8m、横2.2mの絹地に色彩やかに刺繍され、お釈迦様の入滅を悲しむ弟子達と動物が写実的に描かれています。
この「ねはん図」にちなんで大ねはん像が造られました。昭和32年(1957年)、奈良信貴山・福崎日精師の作で、見事なねはん像が造られました。このねはん像は、板倉重昌と松倉重政の霊を供養するために建立されたものです。 

身の丈8.1mの鉄筋コンクリート造りのねはん像としては日本最大で、足の裏に大法輪の相(仏足石)が刻まれているのも最初だそうです。
頭部は、信者による写経1万巻が納められ、台座は歴代住職の納骨堂です。側には島原の藩主となり、島原城を築いた松倉重政と島原の乱鎮圧の追討として派遣され戦死した板倉重昌の墓碑もあります。
 

(2)白土湖(しらちこ)

白土湖
寛政4年(1792年)の眉山崩壊による災害「島原大変」によって生じた、窪地に多量の地下水が湧き出したことによってできた湖です。
現在は南北およそ200m、東西およそ70mの白土湖ですが、形成当時は、上の原一帯から水が噴出し、今の約4倍に当たる南北およそ1km、東西およそ300m~400mの広さがあったそうです。 
島原大変によってできた白土湖の出現により、当時の主要街道である島原街道は寸断されました。
その後も水の湧出は止まらなかった為、災害復旧作業に支障をきたすようになり、南目(島原半島南方)への交通にはイカダを組み立てて渡らなければならないほどでした。
街道の寸断が続いたため藩では、掘切作業を進めましたが簡単には行かず、各村から人夫を1万人以上集めて、やっと翌年春に排水路ができました。工事を早く終わらすために低地を選んで掘り進めたので勾配が緩やかで、川の水音がほとんどしないことから「音無川」と名付けられました。 
枯れることなく、白土湖の湖底からは現在も大量の水が湧出ており、その量は1日あたり4万トンと推定されています。
長崎県内で唯一の非人造湖であり、日本で最も小さな陥没湖とされています。 明治末には、この豊富な湧水を利用した酒造所やラムネ工場が湖畔にありました。
酒造所は今でも湖畔に軒を構えているほか、米や野菜を洗うための洗い場も設置されており、住民の生活用水の一部として利用されています。

 

 

(3)護国寺 三十番神像

三十番神
島原市寺町の日蓮宗護国寺に三十番神をお祭りする神堂があります。ここは寛政4年(1792年)の時にも、奇跡的に流れ残った貴重な御堂です。
三十番神とは、ひと月30日の間をそれぞれ分担して守護して下さる、天照皇大神や八幡大菩薩など30体の法華経守護神の事で、ここ護国寺には朔日・熱田大明神から晦日・吉備大明神までの番神30体の着色木像が安置されています。

この三十番神様には次のような逸話が残されています。
松平家三代忠俔は島原藩主に任命された翌年、元文1年(1736年)原因不明の大病にかかり、一時は危篤状態にもなりましたが翌日回復しました。
そして、心配して集まった家臣たちに昨夜見た夢の話をしました。「いつの間にか立派な御殿の前に来ていて、そこには衣冠を正した30人がずらりと並んでいた。御殿に入ろうとすると、お前は駄目だ、ここは市兵衛のような誠実で信仰厚い人のくるような所だと追い返された。」と。
そこで、さっそくその「市兵衛」という人物を手分けして探させると、熱心な日蓮宗の信者であり、人々の信用も厚い讃岐屋市兵衛という男が見つかりました。
市兵衛を城に呼び出し尋ねてみれば、祖父と父の代からの遺言である三十番神献納を願っていたそうで、それならばと、忠俔は市兵衛を藩士待遇として木村一郎左衛門と名乗らせ、京都に派遣し、名のある刀匠30人に1人1体ずつ番神像を彫らせました。
その費用は全額藩の負担で、同時に三十番神成就を共に祈り合わせて七万巻の法華経文を奉納しました。3年後、番神像は見事に完成し、ここ護国寺に納められました。
しかし、その2年後施主の忠俔は28歳で死亡しました。その後は、天明1、8両年の大火や寛政4年の島原大変にも難を免れましたが、明治2年(1877年)の神仏分離令で寺に置けなくなり、島原城天守閣大広間に移されました。
島原城を取り壊すときには油屋という商人へ払い下げられ、出開帳といって西日本一帯で見世物にされていました。
それを寺と檀家とで相談をして買い戻し、明治15年(1882年)にやっと元の地へ安置することができました。
護国寺はもともと、島原の乱後の慶安4年(1651年)、高力忠房が本妙寺の日遥上人を熊本から招いて開かれたものです。日遥上人は朝鮮李王家の血を引く人物で、2歳の時に加藤清正に連れて来られて熊本で育ち、成長して3代目住職となり、そしてさらに頼まれて島原に渡ってきたそうです。
ここ護国寺・三十番神は、こうして幾つもの変遷を経て今に伝えられています。
  

(4)本光寺

本光寺
この地は、16世紀中頃の島原の領主であった島原氏の居城「浜の城」の出城であった「丸尾城」の跡で、島原氏が浜の城の山手西側を守る為に築城したと言われています。
沖田畷の戦いの時には、佐賀方の山手方面隊の鍋島直茂を島津の将猿亘信光が迎え撃ち、激戦が繰り広げられました。
その供養の為に藩主・高力忠房が、寛永15年(1638年)禅林寺を建立しました。さらに、松平忠房が藩主となった時に浄林寺となりました。

明治に入り、廃寺となった浄林寺のあとに、柏野にあった本光寺を移して現在に至ります。山門は浄林寺創建当時のもので、島原では最古の建物です。
境内の観音堂は明治2年、本光寺が浄林寺あとに移る前から柏野にあったのを、昭和5年末ここに移転しました。堂内には鎌倉時代の青銅座像、如意輪観音、深溝松平城主位牌などが納められています。
如意輪観音像は、元亀2年(1571年)織田信長が比叡山を焼き払ったとき、明智光秀一族の手で火中から救い出し、明智の領地であった福知山に祭られていたのを、松平氏が島原入封の時にこの寺に移したものと言われているそうです。
敷地内には、松平家墓地や元文4年(1739年)実山惠梁和尚の時、城主松平忠刻に許可を願い出て、島原領内の石工に刻ませた十六羅漢像のほか、島原の乱の時にキリスト教徒によって首をはねられた首なし地蔵や、島原城内から移築された常盤御殿などがあります。
常盤御殿は常盤資料館として貴重な文献や遺品などが展示されています。 
 
 <寺めぐりコースの各スポット>
 


 

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