◎ふるさと再発見  初代島原城主 松倉重政(まつくら しげまさ)(生年不詳―1630年)  松倉重政公は、戦国大名で大和郡山(やまとこうりやま)城主・筒井順慶(つつい じゅんけい)の重臣・松倉重信(まつくら しげのぶ)の子として生まれました。豊後守と名乗っています。  1608(慶長13)年、筒井氏は改易となりますが、重政公は1600(慶長5)年の関ヶ原合戦の戦功により、大和国二見五条(やまとのくにふたみごじょう)(現奈良県五條市)1万石の大名に取り立てられました。  1615(慶長20)年の大坂夏の陣の戦功により4万石加増となり、肥前国高来郡日野江(現南島原市北有馬町)に移されますが、程なくして島原城の新築にかかり居城とします。  重政公が島原に移った年や島原城の築城年代については、多くの史料が年代を明記しないため、諸説あります。その中で1682(天和2)年に記したとされる『肥前国有馬古老物語(ひぜんのくにありまころうものがたり』という史料では「元和2(1616)年に日野江に入った後、島原浜の城に移り、同4年に島原に本城の地を取り立て、7年で成就した」という旨で具体的な年数を記しています。  重政公の治世は、島原が半島の政治・経済・文化の中心地として発展していく礎を築いたと評価される一方、領内統治のためのキリシタンの弾圧と過重な年貢徴収によって、のちに島原天草一揆(島原の乱)が引き起こされたと今なお語り継がれています。  また、重政公は南方への遠征を画策し、それに先立って1630(寛永7)年にルソン島(フィリピン)に使節を派遣しています。  ところがその矢先、小浜で死去し、南方遠征は実現せず、その動機は謎のままとなりました。  中堀町にある江東寺には重政公の墓地があります。その寺には島原大変で流失した後に発見された墓石と1828(文政11)年に再建された墓石が残されています。 (社会教育課学芸員 吉田 信也(よしだ しんや)) (写真)江東寺にある松倉重政公の墓地 ◎地域おこし協力隊コラムJ 「地域おこし協力隊なんしよっと」 地域おこし協力隊 杉山 佳恵(すぎやま よしえ)  気が付けば、銀水の1周年まで、あと3カ月。開店して初めての夏は毎日が忙しすぎて、ほとんど何も覚えていません。ただただ毎日をこなしていただけというような状態でした。体力が追い付かず、もっと「かんざらし」や「ところてん」を仕込みたいのにできないと悔しい思いをしたので、今年は「昨年の悔しかったところを改善するぞ」と意気込んでいます。まずはできることから一つずつということで、先日、私はメニューの改良のために、熊本県にあるかんざらしのお店や甘味処を訪ねました。他店を訪ねると自分たちの接客の良し悪しも分かりますし、インテリアやサービスの勉強にもなります。 そして、それぞれに特徴があり参考にできる点も多くありました。しかし、最も強く印象に残ったことは阿蘇から熊本市内までの光景でした。まだまだ残る震災の爪痕。あれから1年。災害からの復興には継続的な支援が欠かせません。心の中で何かしなければ…と思いながら、何もできていなかったことを悔やみました。対岸の地、熊本。その復興のために銀水で何かできないか…と考えるうちに作りたい夏メニューのイメージが湧いてきました。「島原と熊本のコラボメニューを作ろう」というのが現在の目標です。  季節は、初夏へ進もうとしています。昨年来てくれた人にも楽しんでもらえるように夏に向けて準備していきます。 (写真)かんざらしの写真