◎ふるさと再発見   ○第2代島原城主 松倉 勝家(まつくら かついえ)(1597‐1638年)  松倉勝家公は1631(寛永8)年、父・重政(しげまさ)公の死去に伴い、跡目を継いで島原藩主となりました。勝家公は長門守(ながとのかみ)を名乗っています。  勝家公が藩主であった1637(寛永14)年、島原天草一揆(島原の乱)が引き起こされます。当時の藩主が「松倉氏」であると語られることが多いためか、一揆の原因を父・重政公の悪政に求める誤解した見方がいまだに多く見られます。重政公が晩年にキリシタンを厳しく取り締まったことは確かですが、実際は子の勝家公の治政のまずさによるところが大きいようです。  一揆の顛末は後年になって数多く記されますが、その中で勝家公が検地を行い、不当に高い税率で年貢を取り立てたことを記すものが少なくありません。こうした勝家公の「税政」が、領民を疲弊させ、不満を募らせました。  また、勝家公の藩主としての資質を備えていなかった点も指摘されています。熊本藩主・細川家に伝わる資料によると、多くの家臣が勝家公の元を離れて島原から抜け出しています。  さらに、事の虚実ははっきりしませんが、勝家公の所行についての不穏な噂話が流れ、藩主としての身の上が案じられている記述も見られます。当時、他藩からも勝家公が不安視されていたことがうかがえます。  有馬での代官殺害から始まった農民蜂起は、天草の農民蜂起とも連帯し、一藩主だけでは制圧できない大規模な一揆となりました。一揆の制圧には、西国の諸大名が動員され、蜂起した農民のほぼ全員が殺害されました。  一揆が鎮圧された後、勝家公は所領を没収され、領内で一揆が引き起こされた責任を問われ、大名としては異例の斬首の刑に処せられました。 (社会教育課学芸員 吉田 信也(よしだ しんや)) (写真)『原城攻図』(肥前島原松平文庫蔵) ◎地域おこし協力隊コラムJ 「地域おこし協力隊なんしよっと」 地域おこし協力隊 松原 正武(まつばら まさたけ)  島原に移住して、1年が経過し、島原の四季を集めた念願の写真集が完成しました。  撮影する中で、特に印象的だったのは、移住して間もない時に降った大雪でした。  九州は、南国で暖かいというイメージしかなく、ましてや雪が降ることさえも想像していませんでした。  そうした中、島原に大雪が降り、静寂に包まれた四明荘、島原城の天守閣から一望できた市街地、そして、冠雪した平成新山など、普段とは違う島原を堪能しました。 四明荘には、ほとんど人がいない状況で、湧水庭園と降り積もる雪の組み合わせは、静閑で趣のある空間で、最高に画になる風景です。  島原城の天守閣では、扉を開けた瞬間、吹雪で一瞬怯ひるみました。また、吹雪いている市街地は、なかなか見ることができない風景でした。  平成新山は、超望遠レンズで撮影し、いつも見ている表情とは違う姿を撮影できて、興奮しました。  今後も島原の素敵な風景や場所を、写真や映像で撮影してその魅力を全国に発信していきます。  島原の四季の写真集4冊は、図書館や各地区公民館などで見る事ができますので、ぜひ、ご覧ください。  (写真)島原の四季を写した4つの写真集 ▼問い合わせ先 政策企画課(62-8012)