◎ふるさと再発見 第3代島原城主 高力 忠房(1584‐1655年)  高力氏は、室町期に三河国額田(ぬかた)郡高力郷(今の愛知県幸田町)を本拠とし、代々松平本家および徳川家に仕えた家柄です。  忠房公は高力正長の長男として1584(天正12)年に遠江国(とおとうみのくに)浜松(今の静岡県浜松市)に生まれました。摂津守(せっつのかみ)を名乗りました。  1599(慶長4)年、忠房公の祖父で武蔵国岩槻(いわつき)藩主・高力清長に先立ち、父・正長が亡くなり清長もまた隠居します。これにより、忠房公は高力家の家督を継ぎ、岩槻藩2万石の藩主となります。その後、1619(元和5)年、3万石に加増され、遠江国浜松藩主となりました。  1639(寛永16)年、島原天草一揆(島原の乱)の責任を問われて改易となった松倉勝家公の後を受けて、4万石への加増をもって島原藩主となります。  島原に入った忠房公は、一揆によって荒廃した領内農村の復興に尽力しました。他領からの移住民を受け入れ、領内の寺社を創設あるいは再興しました。また、一揆をきっかけに整備していく幕府の対外政策において重要な役割を担うこととなり、以後の島原藩主に引き継がれていきます。  1655(明暦元)年、忠房公は参勤先の江戸から島原へ戻る途中、京都で亡くなります。  萩原一丁目の快光院には高力忠房公と祖父・清長の供養墓碑2基が残されており、市の史跡に指定されています。それぞれの墓所である京都府向日市の永正寺(忠房)とさいたま市岩槻区の浄安寺(清長)から1968(昭和43)年に移されたものです。 (社会教育課学芸員 吉田 信也) (写真)快光院(萩原一丁目)にある高力忠房公・清長公の供養墓碑 ◎地域おこし協力隊コラムM 地域おこし協力隊 小野 友代佳(おの とよか)  地域おこし協力隊として2年目に入り、イベントや移住相談会に積極的に参加するようになり、市外・県外へ出向く機会が増えてきました。  7月には長崎駅のかもめ広場で行われた「ながさき地おこマルシェ」に隊員4人が参加しました。  この「ながさき地おこマルシェ」は、県内の地域おこし協力隊が中心となって行ったイベントです。隊員がプロデュースしているものや活動に関連したものなど県内各市町の協力隊が持ち寄り、その地域をPRするというものです。  島原からは、しまばら野菜やしまばら野菜を使ったドリンクなどを提供しました。会場には、期間中約5000人の来場があったそうです。イベントに参加してみて、積極的に市外へ出かけ、島原の事を広く発信していくのはとても大切なことだとあらためて感じました。  県外の人の声など客観的な意見が聞けることは、とても貴重であり、勉強にもなります。今回もアプローチ方法やブース、イベント全体の見せ方などいろいろな発見がありましたので、次に生かしていきたいと思います。  今後もさまざまなイベントで各隊員の得意分野を生かして島原のことを発信していきます。 ▼問い合わせ先 政策企画課(62-8012) (写真)「ながさき地おこマルシェ」の様子