◎ふるさと再発見   ○第6代島原城主 松平 忠雄(まつだいら ただお)(1673‐1736年)  松平忠雄公は1673(延宝元)年に生まれました。忠雄公はのちに忠房公の養子になりますが、実の父は深溝松平家の分家筋にあたる旗本・松平伊行(まつだいら これゆき)です。  忠房公の長男・好房は、忠房公が島原に入る直前、1669(寛文9)年に亡くなります。好房の没後、跡継ぎは当初、次男の忠倫(ただみち)と目されていましたが、忠房公は1686(貞享3)年に養子にしていた忠雄公を、1691(元禄4)年に跡継ぎとし、忠倫を隠居させました(廃嫡)。  1698(元禄11)年、忠雄公は忠房公より家督を譲られ、藩主となります。  1706(宝永3)年から翌年にかけて、忠雄公は領内の検地を実施します。この検地は長らく島原藩政の基本となりました。また、これを元に作成された島原半島33箇村の石高や人口、産物や旧跡などの詳細な記録は、「島原大概様子書」として後年に伝わり、江戸時代の村の様子が分かる資料として多々引用されています。  忠雄公の島原藩主としての在位は、歴代の中で最も長い37年に及びました。その間、藩の財政に影響を及ぼすような凶作や、跡を継ぐ男子や養子までも相次いで先立たれるという、厳しい現実にも直面しました。  忠雄公は1735(享保20)年、家督を養子の忠長(のちの忠俔(ただみ)公)に譲って隠居し、翌年、江戸で亡くなりました。忠房公と同様に三河国深溝(現在の愛知県幸田町)に埋葬されましたが、藩主としては唯一、市内の本光寺にも墓碑が建立されています。 (社会教育課学芸員 吉田 信也(よしだ しんや)) (写真)本光寺( 本光寺町)にある忠雄公の墓碑 ◎地域おこし協力隊コラム21  「地域おこし協力隊なんしよっと」 地域おこし協力隊 杉山 佳恵(すぎやま よしえ)(写真)  こんにちは、地域おこし協力隊の杉山佳恵です。  地域おこし協力隊としての活動期間も残り1年を切りました。本当に、あっという間の2年間でした。  2年目は、銀水や市内だけにとどまらず、県内の地域おこし協力隊と協力して長崎駅前で物産展を行ったり、福江島で開催されたハンドメイドマーケットに参加したり、名古屋で開催された移住相談会に参加したり…。「島原市の魅力を広く発信しよう!」と活動しました。そのような活動の中で都会での地方への関心の高さを肌で感じることができました。  地方から届けられた新鮮な野菜や魚は値段が高くても飛ぶように売れていきます。また、東京都内にある地方のアンテナショップや物産展には多くの人が訪れています。  そして、都会では、移住相談会が毎週のように実施されています。  2年間、島原市で暮らして「島原には暮らしてみて分かる良さがある」と感じています。「島原のファンを増やす!」それを目標に3年目は移住に関する活動も少しずつ増やしていこうと考えています。 ▼問い合わせ先 政策企画課(62-8012)