◎ふるさと再発見 第9代島原城主 松平 忠祇(ただまさ)公(1735‐1801年)  忠祇公は1735(元文3)年、この直後に藩主となる忠刻(ただとき)公の長男として生まれました。 1749(寛延2)年、忠刻公が参勤で江戸に向かう途中に急死し、忠祇公がその跡を継いで島原藩主となります。しかし、このとき15歳だった忠祇公に長崎での勤めなどは遂行できないとの幕府の判断により、下野国(しもつけのくに)(今の栃木県)宇都宮藩の戸田忠盈(ただみつ)と交替で移され、忠祇公は宇都宮藩主となります。忠祇公の島原藩主としての在位はわずか2カ月ほどでした。  九州諸藩に目を配らせることや、長崎の貿易を監視したり長崎奉行との連絡調整を図るなど、島原の藩主が担っていた任務が幕府としていかに重要で、幼い藩主に務まる任務ではないことが、この藩主交替の事例から分かります。  若くして藩主となった忠祇公でしたが、生来(せいらい)病弱だったため、藩主としての勤めを全うすることはできず、1762(宝暦12)年、家督を弟の忠恕(ただひろ)公に譲ります。このとき忠祇公はまだ28歳でした。  その後は名を主殿頭(とのものかみ)から大炊助(おおいのすけ)と改め、江戸で暮らし、1801(享和元)年に亡くなりました。享年64歳でした。 (社会教育課学芸員 吉田信也) (写真)深溝本光寺(愛知県幸田町)にある忠祇公の墓 ◎地域おこし協力隊コラム 地域おこし協力隊 吉岡 慈文(よしおか ひろふみ)  現在、島原半島各地では農地の区画整備などを行う圃場(ほじょう)整備事業が行われています。  しかし、島原半島には遺跡(周知の埋蔵文化財包蔵地(まいぞうぶんかざいほうぞうち))が多く、遺跡の範囲内では、工事を行う前に発掘調査を行う必要があります。ただ、この調査は皆さんが思い描くような大規模なものではなく、だいたい2m×2mの範囲を掘り下げていくという調査になります。これを「範囲確認調査」と呼んでいます。  この調査結果を踏まえて、工事によって遺跡が破壊される場合には、工事計画に沿って本調査を検討することになります。消えゆく遺跡は、図面や写真といった形で保存され、報告書として刊行されます。  私が実際に範囲確認調査を行った甘木遺跡からは、楕円形の文様が施された縄文土器(押型文土器(おしがたもんどき))や縄文時代晩期にみられるリボン状の突起が施された浅鉢などが確認されています。  酷暑だった今年は、とても大変でしたが、地元の作業員の人と楽しく調査しています。  これらの調査で得られた結果を市民皆さんに伝えていくことが私の使命であると感じます。地域の歴史を未来に伝えていくためにも、市民皆さんのご理解とご協力をお願いします。   ▼問い合わせ先 社会教育課(68−5473) (写真)発掘調査中の吉岡隊員