◎輝く島原人 特別版 島原の地に生き続ける 今回、紹介するのは、27年前の雲仙・普賢岳噴火災害では、当時、知事として常に先頭に立ち、島原市の復旧から復興に至るまでご尽力いただきました、元長崎県知事 故 高田 勇(たかだ いさむ) さん(享年92)を紹介します。  東京都出身。東京大学卒業後、1970年に自治省(現総務省)から県総務部長に就任し、副知事(2期)を経て、82年の知事選で初当選。以来98年3月1日の退任まで、4期16 年間、県政の発展のために尽力した。特に91年6月には雲仙・普賢岳の大火砕流が発生。自然災害で被災した地域の復旧や復興に尽力した。 山よ鎮(しず)まれ街よにぎわえ ※この言葉は島原市の復興と発展を願い、生前高田さんが述べられていた言葉です ◎眉山の恩返し  眉山を拝んでいると、眉山はありがたい山だと思う。 200年前に荒れて大きな災害を起こして多くの方々の命を奪いました。しかし、雲仙・普賢岳噴火災害では、半身になった自分の背中を真っ赤に焼いて、そして、襲いかかってくる火砕流を背中で受けて、城下3万8千人の市民の命を助けてくれた。言うなれば、眉山が恩返しをしてくれたのだと思います。  眉山、本当にありがとう。皆さんも眉山を仰ぎ見るときに、そういう気持ちで見てやっていただきたいと思います。 ※平成23年6月4日、雲仙・普賢岳噴火災害20周年事業の災害・復興シンポジウムにおいて、「当時の体験と教訓を語る」と題した貴重講演の際に述べられた言葉です ◎決断と尽力に感謝  高田勇さんには、27年前の雲仙・普賢岳噴火災害では、当時、知事として常に先頭に立ち、復旧から復興に至るまで、『山よ鎮まれ、街よにぎわえ』を信条として東奔西走していただきました。また、大火砕流に危険を顧みず突入して行く自衛隊員に対して「人の命は地球より重たい、そしてさらに重たい自衛官の使命感を初めて知った」との言葉も残されました。  国や県をはじめ、全国からのご支援をいただき、今日の島原市があるのも高田さんのご尽力の賜であり心から感謝いたします。  高田勇さんの銅像が普賢岳を背景に、これからも島原市民の安全と島原市の発展を見守り続けます。高田勇さんの思いは島原の地でこれからも生き続けます。   島原市長 古川 骼O郎 (写真1)笑顔の高田勇さん (写真2)復旧後、葉たばこが作付けされた農地(安中地区) (写真3)桜パーク(門内町)に設置されている高田 勇さんの銅像      ※この銅像、島原市民の安全と島原市の発展をこれからも見守り続けます