大野原遺跡
大野原遺跡では、平成8年に有明総合文化会館の建設に伴い5000平方メートルの範囲の発掘調査が行われ、今から3500年前の縄文時代後期における土器作りの拠点であったことが明らかとなりました。
縄文土器がどのような場所で、どのようにして作られていたかを知ることのできる遺跡はほとんどありませんでしたが、大野原遺跡での土器作り遺構の発見は大きな成果となりました。縄文土器製作に関わる遺構は複数発見されています。
その一つは「粘土貯蔵穴」です。土器作りの材料となる生粘土を貯蔵しておく地面に掘った穴のことで、遺跡内で8ヵ所が発見されています。そのうち最大のものは、長さ約5m、幅約3.5m、深さ約1mの規模があります。また、この中に貯蔵されていた生粘土は遺跡周辺の地下3mに堆積している黄褐色粘土層とよく似ており、中に含まれる鉱物などの成分を比較分析したところ、同質のものであることが分かっています。大野原の縄文人は、川岸などに露出しているこの粘土層から土器の材料となる粘土を採掘したことが推定できます。
そして、土器作りに欠かせない焼成の痕跡が「焼土跡」です。これは火を焚いたと考えられる痕跡のことで、遺跡内で44ヵ所が発見されています。大きさは平均して1.5mほどで円形に広がっており、中央部がすり鉢状に赤く焼け締まっています。この中には焼けた粘土の塊が見られ、縄文土器の野焼きする際に草の上に被せた泥が焼けたものとみられます。
このほか、粘土をこねて器に仕上げるといった土器作りに関わる様々な作業に使われたと考えられる「作業小屋跡」も発見されました。大野原遺跡の縄文土器は、磨消縄文土器や精製磨研土器と呼ばれるもので、形や文様構成、質感などの点で完成度が高く、時に芸術品と称されることもあます。さらに重要な点は、このような特徴を持つ土器型式が、島原半島だけではなく、対岸の熊本を主とする九州中部・北西部に広く分布することで。有明海を通じて、沿岸地域に共通の文化が成立していたと考えられており、「有明海沿岸文化圏」とも呼ばれています。
大野原遺跡ほどの大規模な土器作りの遺跡は、有明海沿岸文化圏の中での土器生産地であったという見方もできます。