◎輝く島原人Vol.35 心臓外科医の覚悟~医師という職業を生きる~  広報しまばらでは、生き生きと活動し、楽しみながら社会に貢献する人生の達人たちを「輝く島原人」として紹介しています。第35回目は、医師として長年に渡り多くの市民・県民の命を救ってきた内田 象之(うちだ のりゆき)さんを紹介します。 「人生の達人」内田 象之(うちだ のりゆき)さん(81)  昭和14年中堀町生まれ、長崎大学医学部卒業。国立大村病院で約14 年間勤務後、島原市で開院。雲仙・普賢岳噴火災害の影響を受けながらも診療を続け、平成27年に閉院。現在は島原保養院や市役所産業医として診療を続けている。市医師会理事(平成9~24年)・副会長(平成19~24年)崩山町在住。 (写真)患者さんに対し、笑顔で接しながら診療をする内田さん ○命を預かる職務を胸に  昭和21年、第二小学校へ入学。戦後の厳しい学習環境で幼少期を過ごしながらも、長崎大学医学部を卒業。しかし、当時は「インターン闘争」の真っただ中。時代の大きな波の中、全国の多くの医学生が医師国家試験をボイコット。内田さんもその中の一人でした。結果、翌年からインターン制度は無くなりましたが、その影響で半年遅れで医師免許を取得、医師として波乱万丈なスタートを切りました。  5年以上研修医として経験を重ねる中、心臓血管外科医の資質を見い出され、国立大村病院(現長崎医療センター)の外科へ勤務。先に働いていた先輩たちと共に、後に医長となる心臓血管外科チームの立ち上げに参加、多くの患者の命を救いました。  心臓は人体で一番大切な臓器。失敗の許されないプレッシャーからの緊張や、責任感との闘いでした。週に2例ペースの手術は、術後の状態が落ち着くまで1週間程度は、病院で寝泊まりを繰り返す日々。「子どもたちの運動会には1度も参加したことが無く、いつあったのかも分からないくらい、当時は職務を全うするだけで精一杯でした」と、大村での約14年間を振り返りながら話してくれました。   (写真右)国立大村病院で最後の手術 (写真左)個人の診療所時代 ○天命を信じて人事を尽くす  大村病院退職後、帰郷し安中の地で個人診療所を開院。時を同じくして、産業医制度がスタート。若くて経験豊富な内田さんは、県内初となる市役所産業医としても活躍の場を広げました。開院から4年半が過ぎ、経営もようやく軌道に乗ってきた矢先に「雲仙・普賢岳噴火災害」が起こりました。周囲の住民皆さんの協力を得て、間一髪で白山地区へ避難。カルテと薬品、必要最低限の医療器具だけを持ち出し、仮診療所を開院。先の見えない生活の中、安中での医院再開を断念し、平成27年12月に閉院するまで、仮診療所で診療を続けました。  心臓血管外科医を天職として全うしてきた内田さん。3人の子どもたちと一緒に過ごす時間は短かったものの、全員医療関係の道へと進みました。患者の命と誠心誠意向き合う父の背中を見て育った子どもたちは、一緒に過ごした時間や交わした言葉の数以上のものを得ていたに違いありません。  「音楽や旅行など共通の趣味を持つ奥さんと一緒に、これからは自分自身のために大切な時間を過ごしていきたいです」と、安堵した表情でこれからの人生について話してくれました。 (写真右)島原男声合唱団(YoiDoure(よいど~れ))で熱唱 (写真左)奥さんと一緒に思い出作りの旅行