◇つなごう!未来へ 島原半島ユネスコ世界ジオパーク  ▼問い合わせ先 島原半島ジオパーク協議会(65-5540) ○小浜の緑のトンネル 「……木きつ 津の浜 はま、6時38分。富津(とみつ)、6時47分。終点、肥前小浜(ひぜんおばま)には、6時52分に到着する 予定です。まもなく、愛津(あいつ)に着きます。……」    かつては、そんな車内放送が流れていたのでしょうか。    約100年前、千々石と小浜を結ぶ海沿いの県道201号線には鉄道が走っていました。    大正12年に愛野村駅(現在の愛野駅)から千々石まで「温泉軽便(うんぜんけいべん)鉄道」が開通したのを受けて、地元の有志が、小浜まで鉄道を開通させ、温泉リゾート地として人気を博していた雲仙・ 小浜に観光客を導いて地域を活性化させようと立ち上がり、「小濵(おばま)鉄道」が設立されました。    しかし、千々石から小浜までの海岸沿いは硬い溶岩でできた断崖絶壁が連なっており、しかも当時はダイナマイトやツルハシやノミを用いて掘削していたため、線路の敷設は困難を極めました。    着工から5年半、工事従事者延べ約20万人と工事費約75万円(現在の約40億円)を投じて、昭和2年に小濵鉄道は開業しました。しかし、終着駅が小浜温泉の中心街から2km近く離れ ていたことに加え、同時期に自動車やバスが普及したこともあり、小濵鉄道は開通当初から苦しい経営を強いられました。    昭和8年、小濵鉄道は温泉軽便鉄道と合併して「雲仙鉄道」と名を変え、営業を続けていましたが、状況は好転せず、開通からわずか11年後の昭和13年に廃線となりました。    時は流れて現在。初夏になると、新緑が“緑のトンネル”となり、かつての小濵鉄道跡を優しく包み込んでいます。 (写真)「木津の浜駅」跡 (写真)緑のトンネル ◇図書館へ行こう 今月の新刊 「マイクロスパイ・アンサンブル」 伊坂 幸太郎 著 幻冬舎 【内容紹介】    失恋したばかりの社会人と、元いじめられっ子のスパイ。知らないうちに誰かを助けていたり、誰かに助けられたり…。ふたりの仕事が交錯する現代版おとぎ話。猪苗代湖(いわなしろこ)の音楽フェスで配布した連作短編に書き下ろしを加え書籍化。 【作者紹介】   1971年千葉県生まれ。「オーデュボンの祈り」で新潮ミステリー倶楽部賞を受賞しデビュー。「ゴールデンスランバー」で本屋大賞と山本周五郎賞、「逆ソクラテス」で柴田 錬三郎賞を受賞。 〇島原図書館(64-4115) ▼開館時間 9時~18時 ※金曜20時まで ▼休館日 6月6日(月)・13日(月)、20日(月)・27日(月)・30日(木) ※30日(木)は資料整理日 (二次元コード)島原図書館ホームページ 〇有明図書館(68-5808) ▼開館時間 9時~18時 ▼休館日 6月1日(水)・7日(火)、14日(火)・21日(火)・28日(火)・30日(木) ※1日(水)、30日(木)は資料整理日 (二次元コード)有明図書館ホームページ ◇ふるさと再発見  安永3(1774)年に松平忠恕(まつだいら ただひろ)が宇都宮藩から島原藩へ国替となり、 25年ぶりに松平家が島原へ戻ってきました。しかし、寛政 4(1792) 年には「島原大変」という未曽有の大災害が発生し、 これ以降島原藩は復興事業と復興資金の返済に追われることとなります。    また、この頃になると外国船が頻繁に日本近海に出没するようになりました。島原藩は徳川幕府の譜代大名として、長崎監視の役目を負っていましたので、港湾防衛についても対策しなければなりませんでした。    島原半島各地にも台場や大砲が造られました。現在の県南保健所近くにあった長浜台場もこの時期に築造されました。    相次ぐ外国船の出現は「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」 思想を生み出し、 討幕運動へとつながっていきました。島原藩においても、丸山作楽(まるやま さくら)が主宰した民間の教育機関 ・ 神習処(かんならいどころ)で学んだ藩士たちが上級藩士を殺害する事件が発生しています 。    幕末の混沌とした時代、 島原の人々はどのような思いでいたのでしょうか。こうした時代にあっても島原藩士たちは様々な先進的な学問に励み、 近代化の原動力となって いきます。 (写真)島原大変後、周辺住民により作られた土手 (島原市陸上競技場付近) ▼問い合わせ先 社会教育課