◇輝く島原人Vol.60  愛郷無限「人間到る処に青山あり」   「人生の達人」橋本 徹也(はしもと てつや)さん(86) 昭和11年、上折橋町で生まれ、育つ。 教職の道を志し、大学卒業後、教師として小学校の教壇に立つ。 雲仙・普賢岳噴火災害では住み慣れた上折橋町が被災し、市内で避難生活を送る。 定年退職を機に雲仙市国見町へ居を定めるも、ふるさと島原へ帰り、現在に至る。 杉谷地区悠友クラブ連合会会長(H30〜H31)、自ら作詞を担当した「スギタニ」歌と踊りの保存会会長(H28〜)を務める。下折橋町在住。 (P12写真)かつての上折橋町の自宅付近に立つ橋本さん(しまばら火張山花公園) (P13写真)地元有志の方と神社清掃のあと記念撮影 (P13写真上)毎日のように通う山の木陰でひと休み (P13写真中央)山で飼育するポニーのお世話を楽しむ (P13写真下)移設された折橋神社の清掃活動に毎月参加 (P13写真左下)解散記念誌「心のふる里 わが上折橋」 前段 ●全力で全うした教員生活 杉谷地区の上折橋町に生まれ、折橋分校、第四小学校に通った橋本さん。  教職の道を志し、長崎大学を卒業後、第三小学校の新任教諭として赴任。  市内小学校を中心に教壇に立ち、島原市教育委員会では指導主事として勤務。  対馬での離島勤務も経験しました。  55歳の頃、雲仙・普賢岳噴火災害さなかの平成3年4月に第三小学校の校長として着任します。  「第五小学校を三小で受け入れることになり、三五小(さんごしょう)と呼んで仲良く学校生活を送ろうと子どもたちを励ましました。  体育館は避難所になっており、大火砕流発生後は校長室に泊まり込む日々が続きました」と、当時を振り返ります。  平成8年3月、第一中学校の校長として定年を迎え、教員生活を終えましたが、雲仙・普賢岳噴火災害は、橋本さんの人生に大きく影響を及ぼすこととなりました。 後段 ●失われたふるさとへの想い 火砕流の猛威は千本木・上折橋地区にも及びました。  自宅は火砕流の直撃は避けられたものの、噴石や火山灰による被害は免れませんでした。  また、火山堆積物による土石流も発生。  下流域に位置する市街地を守ることを目的に、砂防ダム建設が計画され、締切堤内にある上折橋町内会は解散を余儀なくされました。 「断腸の思いでした。しかし、噴石や火山灰、火砕流や土石流の恐怖を考えると、もうここには住めないという、あきらめの気持ちもありました。  そして市街地を守るための砂防ダム建設ということで、町内会としても計画を受け入れるしかありませんでした」と、当時の苦悩を振り返ります。  町内会が解散することとなり、ふるさとの記憶を残すための記念誌づくりでは編集責任者として奔走しました。 「積もる思いがあったのでしょう。多くの原稿が寄せられました。チラシの裏面だったりノートの紙片だったり。そこに書かれた一文一文を重く感じました」  短期間にも関わらず、皆さんの思い出が詰まった記念誌『心のふる里 わが上折橋』は無事完成し、町内の皆さんへ配られました。  ふるさとを離れて18年間、雲仙市国見町で生活していましたが、8年前に杉谷地区に帰ってきました。  現在は下折橋町で奥様と平穏な日々を過ごしています。 「噴火災害はたいへんな経験でしたが、やるべきことはやったと思っています。  今は大好きな山仕事やポニーの世話を楽しんでいます。まだここには田畑や山林が残っていますからね。  これからも人に迷惑をかけず、自然と共生し、子どもたちの手本となるような暮らしを送ろうと思っています」と、穏やかな笑顔で語っていただきました。