●つなごう!未来へ 島原半島世界ジオパーク73 島原半島ジオパーク協議会(65-5540) 人の心を鎮めるかつての島・天如塔(てんにょとう)と霊丘(れいきゅう)公園 毎月、島原半島内のジオサイトやその見どころを紹介するこのコーナー。今回は市内にある天如塔と霊丘公園です。  市街地に、弁天山と呼ばれる小高い丘があります。この丘の上に、天如塔と呼ばれる珍しい仏塔が建っています。  天如塔は、1909(明治42)年、アジア諸国を巡った僧侶・広田言証(ひろたごんしょう)師が、ラングーン(現在のミャンマーの首都・ヤンゴン)から持ち帰った仏像を安置するために建てた塔で、建立には当時東南アジア諸国に強制的に連れて行かれた出稼ぎ労働者(“からゆきさん”)の浄財が用いられています。塔の内部には、昇り専用と降り専用の二つのらせん階段があり、仏様の胎内めぐりを意識した造りとなっています。このような構造の仏塔は「さざえ堂」と呼ばれ、江戸中期から幕末にかけて東日本を中心に建てられましたが、西日本ではほとんど見られない、大変珍しい建築物です。  天如塔から東北東に約500メートルの場所に霊丘公園があります。その一角にある霊丘神社は、1664(寛文4)年に当時の島原藩主・高力高長(こうりき たかなが)公が、島原・天草一揆ですさんだ人の心を鎮め、政治の安定を祈願するために、徳川家康(とくがわいえやす)公を祀る日光の東照宮を分祀し、建立したものです。当初ここは“東照宮”、周りの丘は“権現山”と呼ばれていましたが、明 治初期に行われた社殿の改修に伴い、近くにあった宗むなかた像神社と七代にわたった松平家の霊を祀る「霊たまおか丘神社」を新たに建立したのが、その由来です。  天如塔がある弁天山や、霊丘神社がある霊丘公園の周りには、岩がごつごつした小高い丘がいくつもありますが、これらの丘はどのようにしてできたのでしょうか。  今からおよそ4600年前、島原半島で火山噴火が起こりました。粘り気の強いマグマが噴出し、時に火砕流を発生させながら山は成長を続け、眉山となりました。この噴火の際に、かつてそこにあった山が崩れ、土砂が海に流れ込み、島原の湾の中にいくつかの島(“松島”“中之島”)をつくったといわれています。これらの島が浮かぶ島原の湾は、その後発生 した1792(寛政4)年の眉山の崩壊に伴う土砂で埋め立てられ、島だったところが丘となって残りました。その丘の一つが弁天山です。また霊丘公園の周りが少し高くなっているのも、かつてここが島であったことのなごりです。時代は異なりますが、人の心を鎮めることを願って造られた2つの建物が、ともに眉山ができたときの噴火がつくった丘の上に建っている、というのは偶然でしょうか。  次回は「守山大塚古墳と雲仙市歴史資料館 国見展示館」を紹介します。 (写真)天如塔(市の有形文化財に指定されています) (写真)霊丘神社の周辺にある小高い丘(約4600年前に起きた山崩れに伴う「流れ山」です)