●つなごう!未来へ 島原半島ユネスコ世界ジオパーク74 島原半島ジオパーク協議会(65-5540) ○「守もりやま山大塚古墳」と「雲仙市歴史資料館・国見展示館」 ▼守山大塚古墳 毎月、島原半島内のジオサイトやその見どころを紹介するこのコーナー。今回は雲仙市吾妻町の守山大塚古墳と、同市国見町の雲仙市歴史資料館・国見展示館 です。  諫早方面から堤防道路を経由して島原半島に入り、そのまま雲仙グリーンロードに向かって道を進むと、左手に墓地になっている小高い丘が見えます。この丘 は自然の地形ではなく、人の手によってつくられた“古墳”です。  守山大塚古墳は、幅51メートル、長さ70メートルに達する前方後円墳で、県内の前方後円墳としては、壱岐市の双そうろく六古墳に次ぐ2番目の大きさを誇りす。この古墳がつくられたのは、古墳の周りから出土した土器片の様式から、4世紀前半(約1700年前)ころと推定されています。  通常、前方後円墳は全体を“葺ふきいし石”と呼ばれる石で覆い、古墳を美しく飾るとともに、雨風から古墳を守ります。平成20〜21年に、守山大塚古墳の周囲で行われた発掘調査の際には、葺石と思われる人の頭ほどの大きさの丸石が大量に出土しました。太古の人々は、田た ない 内川が運んだ角が取れて丸くなった雲仙火山の溶岩を用いて、大切な古墳を守ろうとしたのでしょう。しかし、奈良時代以降、島原半島北部では多くの水田や畑がつくられるようになりました。地面は平らにならされ、多くの遺跡や古墳が失われたことでしょう。にもかかわらず、守山大塚古墳が残ったのは、そこに埋葬されている人物に関わりがあります。  守山大塚古墳がつくられた当時、日本を治めていた大和朝廷にとって、農作物の確保は大変重要でした。雲仙火山の噴火と長い年月がつくり上げた肥沃な土は 豊かな農作物を産み出す貴重な天然資源だったのです。よって朝廷は、肥沃な土が広がる土地の管理を、信頼する重要人物に任せていた可能性があります。守山 大塚古墳が円墳でなく前方後円墳であることも、これを裏付けます。前方後円墳は朝廷と関わりの深い人物しかつくることができなかったのです。つまり守山大 塚古墳には、朝廷や地域の人にとって特別な存在といえる、有力な豪族が埋葬されているかもしれないのです。 ▼雲仙市歴史資料館・国見展示館  雲仙市歴史資料館・国見展示館には、守山大塚古墳周辺で行われた発掘調査の成果に加え、島原半島の北部に点在する複数の遺跡から出土したさまざまな出土 品が、時代順に展示されています。旧神代中学校の校舎を利用したこの展示館で、およそ3万年間にわたって島原半島で繰り広げられてきた、人々の営みと歴史を感じてみませんか。次回は、昨年11月17日にユネスコの正式事業となったユネスコ世界ジオパークに関する最新情報を紹介します。