●ふるさと再発見  津町の眼鏡橋  眉山の麓を水源とする白水川が広馬場の東を流れて有明海に注ぎます。その下流に当たる津町に橋が架かっています。眼鏡橋と呼ばれ、さらに霊南橋へと続きます。眼鏡橋はアーチ型の石橋です。橋長は約16メートル、橋幅は約4メートルです。橋底の石組みは見事で石工たちの技術と苦労が伝わります。架橋年代は少なくとも幕末には確認できます。  かつて眼鏡橋は、東側の島原城下と西側の島原湊を往来する人々で賑わっていた場所でした。  1862年(文久2)正月、豊後国高田(現・大分県豊後高田市)の歌舞伎が島原で行われました。算所(さんじょ)歌舞伎と呼ばれ、島原藩主の前でも披露されていたので島原御前歌舞伎とも呼ばれていました。興業主は猛島神社の修験(しゅげん)・山伏であった成就院(じょうじゅいん)でした。  眼鏡橋は豊後国から来島した歌舞伎役者の看板が建てられた場所でもありました。その他、大手橋、湊広馬場、浦の川口にも役者看板が建てられました。  およそ日本の橋は、此岸(しがん)(人間界・世俗)から彼岸(仏界・浄土)に渡る意味がありました。 京都の五条大橋、伊勢神宮の宇治橋、熊本緑川の大渡橋も例外ではありません。島原の眼鏡橋はこのような架橋の論理は失われましたが、自領他領の人々を問わず、交通往還の利便性が顕著な橋でした。  満潮の眼鏡橋は眉山を背景として川面(かわも)が耀く美しい景観を見せてくれます。そして、有明海と白水川に生息する魚介類の生命(いのち)の営みを見つめ続けています。 (肥前島原松平文庫長・根井浄) (写真)昭和初期の眼鏡橋『島原雲仙図会』より ●地域おこし協力隊コラム@  島原へ移住して半年近くが経ちました。移住したてのころは、梅がとてもきれいに咲いていて、それがいつしか桜に代わり、庭の木々に青葉が生い茂って、夏を感じられるようになりました。  島原に来るまでは、そうした日常のささやかな変化に気づくことはできませんでした。豊かな自然と、ゆっくりと流れる時間の中で、私はとても充実した日々を過ごしています。  私が地域おこし協力隊として現在携わっている『銀水再建プロジェクト』も、少しずつですが着実に進んでいます。先日、とうとう建物の中へ入ることができました。壁は真新しくなっているものの、梁や柱には修復前の銀水の木材が使われており、当時の面影を残した味のある建物となっています。  そして、オープンしてから実際に出すメニューの選定も決まりました。当時の銀水の味を再現することは、本当に難しく、いろいろな人からアドバイスをいただき、納得のいくものになっています。また、よそ者の観点から、新しいタイプの寒ざらしやスイーツも加えていく予定です。  島商生とのコラボレーションも計画しています。地元で昔から愛され続けているお店が復活する、その想いを若い世代にも繋いでいきたい、そして、その若い世代が銀水というフィールドでたくさんの経験を積んで、いつか島原をもっと盛り上げられる人に成長していってほしい。 そんな願いをもって一緒に取り組んでいます。  銀水は8月6日にオープンします。皆さん、ぜひお越しください。お待ちしています。  隊員 杉山大介 ▼問い合わせ先 政策企画課(62−8012) (写真)地域おこし協力隊員の杉山夫婦が作ったかんざらしを古川市長が試食