●ふるさと再発見  もう一つの島原大変資料  寛政4年(1792)4月、雲仙・普賢岳が噴火し、やがて眉山の崩壊を誘発しました。この惨事によって島原の街並みは一変し、多くの犠牲者を出しました。島原大変・肥後迷惑と呼ばれる大災害です。  未曾有の被害に島原藩は、救護、救済を展開し、また寺院による菩提供養が行われました。 翌、寛政5年には、半島各所に「流死菩提供養塔(りゅうしぼだいくようとう)」が建てられ、田町にある「流死菩提供養塔」もその一基です。  このような災害供養塔は中堀町の宝篋印塔(ほうきょういんとう)型「流死供養塔」をはじめとして島原半島各地に残り、亡くなった人の墓も数多く存在しています。  萩原地区墓地の入り口に「入江家之奥都城(おくつき)」と刻んだ標石があります。入江家は猛島神社の社しゃ家け 、奥都城とは神道でいう社家の墓所を意味します。その墓 地の一画に福寿院宥栄法印(ゆうえいほういん)(山伏)の墓碑があります。側面には寛政4年に眉山が震動し、南から崩れて海に入り、市中に潮水が襲来したとあり、続けて身 体に金かねを得たと刻んでいます。  身体が金に成るという文言は、山伏の死を意味する隠語であり、鎌倉時代の『沙石集(しゃせきしゅう)』にその例をみることができます。  島原大変の史・資料は、古記録や絵図、石碑など多数知られていますが、萩原地区に残る墓碑は、知られざるもう一つの資料として眉山崩壊の惨事を伝えています。 (肥前島原松平文庫長・根井浄) (写真)島原大変を伝える墓碑 ●地域おこし協力隊コラムC  島原に移住して約半年が経ち、ようやく知り合いができ、生活にも慣れてきたところです。  私が島原をPRするために考えたキャラクター「かんザラシ」も着々と認知度を上げ、地元の人に見せると、「知っているよ、もっぱらマガジンの表紙のやつだよね」などと言ってもらえるようになりました。  現在、フリーマガジンの表紙イラストのほか、イベントチラシや各施設にPR用配布物を設置するなど、地元の皆さんの協力を得ながら活動しています。  7月からは、かんザラシのホームページを開設し、活動情報のほか、オリジナルの折り紙や、お絵描き塗り絵などダウンロードコンテンツの配信も開始しました。また、SNSでも情報発信しており、島原の景色や名物の「かんざらし」のほか、イラストなどを載せ、市内から県外へと幅広く、島原の魅力を発信しています。  SNSを通じて気付いた事は、まだまだ島原を知らない人がたくさんいる事、また島原にはたくさんの魅力があるという事です。  今後もさまざまな視点から島原をアピールし、多くの人に興味を持ってもらい、そして訪れてみたくなるような楽しい仕掛けを考えていきたいと思います。  この土地の知らない事は山ほどあるので、もし私を見かけたら、皆さんの知っている島原の事を教えてください。  興味がある人はぜひホームページやツイッターをご覧ください。「かんザラシ」」検索  隊員 小野友代佳(おのとよか) ▼問い合わせ先 政策企画課(62−8012) (イラスト)キャラクター「かんザラシ」