◎ふるさと再発見 第4代島原城主 高力 高長(こうりき たかなが)(1605‐1677年)  高力高長公は「隆長」と表記されることもあり、通常「左近太夫(さこん たゆう)」と名乗ってました。1655(明暦元)年、父・忠房公の死去により島原藩主となります。  高長公は書籍、特に漢書(『論語』などの中国の書)の収集家でした。幕府の儒学者の日記には、全国でも指折りの書物を収集する大名として、漢書は高長公、和書(『源氏物語』などの日本の古典)は、当時の丹波国福知山藩主・松平忠房公が挙げられています。残念ながら高長公の蔵書は今は伝わっていませんが、ともに島原にゆかりのある大名が国内有数の蔵書家であったことは大変興味深く、忠房公の蔵書が松平文庫として伝わっているだけに大変惜しまれます。 一方、藩政については必ずしもうまくいったとはいえませんでした。  高長公を強く諫めた家老・志賀玄蕃(しが げんばのじょう)(甚三郎)を成敗するに至ったことが伝わっており、家臣団の統率がうまくとれなかったことをうかがわせます。なお、玄蕃が没した地は「甚三郎山」(市指定史跡)として伝えられ、今も祠が祀られています。  以前は奉納相撲が催されていました。  1667( 寛文7) 年、幕府が巡見使を島原に派遣した際、島原の領民が過重な年貢をかけられていることを巡見使に訴え出ました。幕府は再調査した後、同年2 月に高長公を改易し、陸奥国仙台藩に配流しました。1677(延宝5)年、高長公は同地で没しました。同時に嫡子・常長は出羽国庄内藩に、二男・秀長は信濃国松 代藩にそれぞれ預けられますが、後年2人は赦され、高力家は旗本として存続していきます。 社会教育課学芸員 吉田 信也(よしだ しんや) (写真)甚三郎山にある志賀玄蕃の祠 地域おこし協力隊コラムO 地域おこし協力隊 松原 正武(まつばら まさたけ)  こんにちは。地域おこし協力隊の松原正武です。  FMしまばらで島原半島に昔から語り継か゛れる豊かな民話の世界に島原半島シ゛オハ゜ークの視点を加えて、有明童話の会「くすのき」の皆さんが一話す゛つ丁寧に語る番組が放送されています。  以前は、言葉だけで民話が作られた場所の情景や地形など、ジオに関係する情報を伝えていたのですが、6月から撮影を行い、臨場感が持てる映像をインターネット上で伝えることができるようになりました。  この番組は、企画を北田貴子(きただたかこ)さん( 自由空間きた田)、民話の語りを金子加代子(かねこかよこ)さん(有明童話の会「くすのき」)、島原半島シ゛オハ゜ークの話と監修を大野希一(おおの まれかず)さん(島原半島シ゛オハ゜ーク協議会)、そして、映像撮影と編集を私が行っています。  最近、制作した民話「みそ五郎の足跡」を次のQRコードから見ることができます。また、インターネットで「民話そこここ」と検索すると、「みそ五郎の足跡」 以外の民話も見ることができます。  「民話そこここ」の新たな展開として、島原半島の民話の世界をハ゛ーチャルシ゛オツアーとしてインターネット上て゛公開していきたいと考えています。そして、国内外の多くの人に、「民話そこここ」の取り組みを知ってもらい、島原半島の魅力と豊かさを感し゛て欲しいと思います。 ▼問い合わせ先 政策企画課(62-8012) (写真)有明海をバックに民話について語る金子さん(左)と大野さん(右)