◎ふるさと再発見   ○第5代島原城主 松平 忠房(まつだいら ただふさ)(1619‐1700年)  松平忠房公は1619(元和(げんな)5)年、三河国吉田(今の愛知県豊橋市)に生まれました。忠房公の松平家は、将軍家である徳川家がかつて松平家を称していたころからの分家で、三河国深溝(ふこうず)(今の愛知県幸田町)を出自としたことから「深溝松平家」と称しました。忠房公の父の松平忠利公以降、当主は代々「主殿頭(とのものかみ)」を名乗りました。  1632(寛永(かんえい)9)年6月に吉田藩主であった忠利公が亡くなり家督を継ぎましたが、8月には三河国刈谷(今の愛知県刈谷市)に移され、刈谷(かりや)藩3万石の藩主となりました。  1649(慶安(けいあん)2)年、1万5千石の加増をもって、丹波国福知山(今の京都府福知山市)に移された後、1669(寛文(かんぶん)9)年、さらに加増されて肥前国島原に移され、島原藩6万9500石の藩主となりました。  島原における忠房公の治政は、30年近くに及びました。前藩主の時に過重となっていた農民の負担を緩和する政策をとるなど、民心の安定を図りました。半島を五筋(5ブロック)に分け、各所に代官を2人ずつ配置しました。後に「北目筋」、「南目筋」、「西目筋」の三筋となり、村落支配の基本単位として後世に引き継がれていきました。  一方で忠房公は文武の諸芸を一流の講師から学び、極めました。さらには神道家の伊藤英治や大和流弓術の開祖である森川香山などの優れた人材を島原に招きました。  肥前島原松平文庫には、忠房公の集書の証である「尚舎源(しょうしゃみなもとの)忠房」と「文庫」の二つの印が押された書物が数多く遺り、忠房公が探求心旺盛だったことを物語ります。  1698(元禄(げんろく)11)年、家督を養子の忠雄公に譲って隠居し、1700(元禄13)年に82年の生涯を閉じました。 (社会教育課学芸員 吉田 信也(よしだ しんや)) (写真)文武にすぐれていた忠房公の直筆和歌(島原城蔵) ◎地域おこし協力隊コラムP 「地域おこし協力隊なんしよっと」 地域おこし協力隊 小野 友代佳(おの とよか)  こんにちは。地域おこし協力隊の小野友代佳です。  地域おこし協力隊としての活動期間もいよいよ残り1年余りとなりました。  昨年、しまばらPRキャラクター「かんザラシ」を活用した活動をより活発にするため、クラウドファンディングという方法を用いて、『長崎県“島原”を広めたい!かんザラシと一緒に島原PR大作戦!』と題して、島原のことを紹介したページをインターネット上で公開するとともに、活動支援を募りました。この方法が無事に成功し、以前よりも少し大きなことができる機会が増えました。そして、想像していたより県外の人たちからも反応があり、島原に興味を持ってく れている人がたくさんいることを実感し、とてもうれしかったです。  また、昨年末には、五島市で行わた「ハンドメイドマーケットinGOTO」に参加し、島原のことを絡めた手作り雑貨を出 展するなど、少し趣向を変えたアプローチ方法で情報を発信しました。  あっという間に3年目ですが、残りの期間も自分らしい方法で楽しみながら島原のことを発信していきたいと思います。 ▼問い合わせ先 政策企画課(62-8012)