◎ふるさと再発見 第10代島原城主 戸田 忠盈(ただみつ)公(1730‐1781年)  島原藩は、忠房公から4代、約80年にわたって深溝松平家が統治してきました。1749(寛延2)年に忠刻公が急死し、後継者であった忠祇(ただまさ)公は、若干12歳という年齢でした。幕府にとって島原は統治が難しい地域であり、長崎監視という重要任務もあったため、藩主の任命は重大事でした。  そこで、1749(寛延2)年、下野国(しもつけのくに)宇都宮藩の戸田忠盈公が領地を交代するかたちで入封することになりました。戸田氏は、譜代大名で、寺社奉行、京都所司代など幕府の重役を多く輩出する家系です。忠盈公の父も奏者番(武家の礼儀作法の管理や将軍への挨拶を取次ぐ役職)を務めています。  忠盈公の治世は5年間と短く、不明な点が多いのが実情ですが、おおよそ松平時代の政策を引き継いだと考えられています。有明町には、六人道堤(ろくにんどうつつみ)という溜池がありますが、これは戸田氏の治世に作られたもので、今も農業用水として利用されています。  一方で、忠盈公は病弱だったようで、入封後5年程で引退しました。忠盈公には男児がいましたが、早世しており、弟の忠寛(ただとお)公が家督を継ぎました。忠盈公は、1781(天明元)年に51歳で亡くなりました。  (地域おこし協力隊 吉岡 慈文(よしおか ひろふみ))  (出典:『有明町史』上巻) (写真)宝暦十辰年用水碑(ほうれきじゅうたつのとしようすいひ)(六人道堤) ◎地域おこし協力隊コラム 地域おこし協力隊 松原 正武(まつばら まさたけ)  兵庫県から島原に移住して3年近く経ちました。短いようで長い、長いようで短い時間でした。  島原では、都市部では経験できない事をいろいろ経験しました。なかでも特に印象の残ったのが、「肥前島原子ども狂言」です。能や狂言の存在は知っていましたが、実際に見た事はありませんでした。伝統的な日本の文化に興味はあったのですが、身近に詳しい人がいなかったので、関西では観る機会がなかったです。  能や狂言の事、島原と能の関係など、何も知らなかったのですが、講師 松尾 卓次(まつお たくじ)さん(島原城解説員)の肥前島原子ども狂言公開文化講座や、講師 小林与志郎(こばやし よしろう)さん(宝生流能楽師)の島原城薪能特別公開講座「島原城薪能の楽しみ方」などで、島原には能が好きなお殿様がいて、昔から能や狂言が盛んだった事などを知りました。  薪能運営委員会に入り、年間を通して、子ども狂言を撮影してきました。野村 万禄(のむら まんろく)さん(能楽師 狂言方 和泉流)の指導のもと、子どもたちが一生懸命に稽古してきた様子は写真の中にしっかり記録されています。  子どもたち、裏方で支えているボランティアや指導者の皆さん、「肥前島原子ども狂言ワークショップ」は他の地域にはない、本当に素晴らしい文化活動です。今後もこの伝統を残していってほしいです。 ▼問い合わせ先 島原ふるさと創生本部(62−8012)   (写真)子ども狂言の稽古風景