◎ふるさと再発見 第11代島原城主 戸田 忠寛(ただとう)公(1739‐1801年)  戸田忠盈(ただみつ)公には男児が一人いましたが、早くに亡くなってしまいました。家督は弟の忠寛公に譲られ、忠寛公が藩主となりました。  島原藩では、農村の疲弊や財政悪化が課題となっており、忠寛公が内政に心を砕いたことが想像されます。実際に、1767(明和4)年には、15年の期限付きで藩札(藩が独自に発行した紙幣)を発行したい旨を幕府に要請し、財政の立て直しを試みています。  1774(安永3)年、松平忠恕(ただひろ)公と交代する形で旧領の宇都宮藩へ戻ることになります。  戸田氏は幕府の要職を歴任する、吏僚(りりょう)タイプの大名と言えます。忠寛公も1770(明和7)年、奏者番に任命されたことを皮切りに、寺社奉行、大坂城代、京都所司代と幕府の要職を歴任しました。  京都所司代であった1787(天明7)年には、「御所千度参り」が起きました。これは、飢饉に苦しんだ人々が御所に救援を求めて起きたものでした。朝廷は食料を配るなど救援対策を行いましたが、事態を憂慮した光格天皇は、京都所司代(忠寛公)を通じて民衆への救済を幕府に要請し、幕府は米を配給して対応しました。忠寛公は1798(寛政10)年に引退し、長男の忠翰(ただなか)に家督を譲ります。1801(享和元)年に六十二歳で亡くなりました。 (地域おこし協力隊 吉岡 慈文(よしおか ひろふみ)) (写真)島原藩発行の藩札・榊原郷土資料館蔵 ◎地域おこし協力隊コラム 地域おこし協力隊 上田 友(うえだ とも)  昨年12月から地域おこし協力隊として活動している上田友です。  私は島原で生まれ育ち、高校卒業後、この地の素地を持ちながら四半世紀を県外で生活してきました。  外からの視点で感じることを大切にしながら、先人たちへの敬意と感謝の気持ちを持って、島原で暮らす日々の生き甲斐や、誇りを見つけていきたいと思います。  朝の気分や、天候によって、自転車、徒歩、島鉄バスと通勤手段を変えながら、島原の景色を楽しんでいます。船の汽笛や島原鉄道の音を聞きながら、有明海と眉山を見ていると、自然の恵みに囲まれた素晴らしい環境だなあと、あらためて実感しています。美味しい食材、豊かな食文化に感謝します。  スーパーへ行くと、私にとっては懐かしい食材や惣菜が並んでいますが、他県出身の妻にとっては珍しい物が多々あるようで、興味津々です。少しずつでも島原の食材を使った郷土料理などを学んで、食卓に一品ずつ並び増えていくことを楽しみにしています。  夫婦で何かしらの発見を伝えあう日々は、とても楽しく新鮮です。時間が経つと慣れてくるのでしょうが、早く慣れたいと思いながらも、今だからこそ気付く日々の新鮮さを大事にして、新たな島原を知り、楽しみたいと思います。皆さん、よろしくお願いします。 ▼問い合わせ先 島原ふるさと創生本部(62−8012)   (写真)霊丘公園内、蒸気機関車C12の掃除と正月飾り付けをする上田隊員