◎ふるさと再発見 第12代島原城主 松平忠恕(ただひろ)公( 1742〜1792)『島原大変大地図』 肥前島原松平文庫蔵  松平忠恕公は忠刻(ただとき)公の次男として誕生しました。宇都宮藩主である兄の忠祇(ただまさ)公が1754(宝暦4)年に病を理由に退隠したため、跡を継ぐこととなります。  1774(安永3)年には旧領である島原藩への転封が命ぜられ、翌年に入部します。この国替には莫大な費用がかかり、後の藩政へ影響をもたらすことになります。  入部後、先の島原藩主戸田氏が発行していた藩札の発行期限を先延ばしにし、藩の財政立て直しに着手しました。また、島原藩の特産物となりつつあった櫨生蝋(はぜきろうの専売制を採用するなど地場産品の生産力向上にも取り組みました。  このように財政の立て直しに尽力しましたが、現代の財政再建が難しいのと同様に、思惑通りにいきませんでした。 藩札の発行はインフレを引き起こし、米価は低落。農民は困窮することになりました。また、櫨生蝋の生産も専売制を採用したために、単価が安くなり生産意欲の低下を招いてしまいました。安永・天明期(1772 〜1781) は台風被害が相次ぎ、さらに藩は困窮していきました。  1792(寛政4)年には、いわゆる「島原大変」という未曽有の大災害が発生し、災害復興金を幕府から借用し復興にあたることになります。  忠恕公は復興へ取り掛かる矢先の寛政4年4月27日、避難先の守山村(雲仙市吾妻町)にて死去しました。  「不運な藩主」ともみられがちですが、困難に直面しても、結果はともあれ行動する、責任感あるお殿様ともいえるでしょう。  地域おこし協力隊 吉岡 慈文(よしおか ひろふみ) ◎地域おこし協力隊コラム 地域おこし協力隊 吉岡 慈文(よしおか ひろふみ)  今から350年前、松平忠房公が福知山から島原へ入部しました。その忠房公を輩出した深ふこうず溝松平家は、三河国深溝を本ほんかんち貫地とする一族です。  本市と幸田町は、松平家の歴史的なつながりを縁に一昨年10月に姉妹都市を締結しました。  2月9〜 10 日に幸田町で開催されたシンポジウムに参加してきました。この中で、島原の松平家墓所についての調査報告をはじめ、幸田町の松平家墓所の現地視察にも参加し、歴 代藩主と初対面してきました。  そのシンポジウムには町民をはじめ、近隣大学の講師や学芸員も参加しており、学術的な意見交換もできました。また、史跡の保護や整備についても意見交換を行うことができ、見識を広げることができました。  国を挙げて「文化財の活用」が叫ばれる昨今ですが、適切な保護を無くして有意義な活用はあり得ません。  私たちには文化財を次の世代に伝えていく責任があります。 しかし、文化財は一人や二人で守っていけるほど甘いものではありません。専門家はもちろん、地域の人たちのご理解とご協力が不可欠です。  私も協力隊として、官民協働の文化財保護について考え、100年先の市民へ文化財を伝えていきたいと思います。 ▼問い合わせ先 社会教育課(68−5473)