◎ふるさと再発見 第15代島原城主 松平 忠誠(ただなり)公(1824〜1847)  忠侯(ただよし)公の逝去を受けて1840(天保11)年に藩主となったのが次男の忠誠公です。忠誠公が藩主となった時期は、日本近海に異国船が頻繁に出没していた時期にあたります。  島原藩は幕府より長崎の監視を命じられていましたから、長崎や豊州領、島原の海岸防備に力を注ぎました。  1844(弘化(こうか)元)年には、オランダ軍艦、翌年にはイギリス艦、翌々年にはフランス艦と毎年のように長崎に入港したため、警備に追われました。  一方で、忠誠公の時期には藩内に蘭学が根付きはじめた時期とも言えます。医師の市川泰朴(たいぼく)が領内の医師を集めて死体解剖(腑(ふ)分け)を行い、解体図(肥前島原松平文庫所蔵・市指定有形文化財)がつくられました。市川らは1843(天保14)年と翌年の二度にわたって解剖を実施したと考えられています。これは日本の西洋医学にとっても先駆的な業績です。  また、1846(弘化3)年には、眉山の麓に薬園を開設し、その経営に飯島義角(ぎかく)と賀来佐一郎(佐之(すけゆき))をあてました。  薬園経営の実際は、薬草というよりも唐芋や菜種などが主として栽培されていたようです。これは、経済的な問題に起因するもので、薬園の経営に苦心したことが想像されます。  家臣の声に耳を傾け藩政にあたろうとした忠誠公でしたが、病気がちで1847(弘化4)年4月16日に在位8年で死去しました。24歳の若さでした。  激動の時代への萌芽(ほうが)の中で、西洋の知識が国内に徐々に広がりをみせる時代のお殿様でした。  (参考:『三百藩藩主人名事典』4・『島原半島医史』) 地域おこし協力隊 吉岡 慈文 (写真)旧島原藩薬園跡(国指定史跡) ◎地域おこし協力隊コラム 協力隊、なんしよっと? 地域おこし協力隊 吉岡 慈文  今年の夏も暑かったですね。  連日のように35度前後の猛暑日でした。  私は前職でも夏といえば発掘調査でしたから、夏休みが待ち遠しい子どもたちのように、7月あたりになるとソワソワし始めます。  今年は長貫A遺跡という遺跡で水路が作られる予定地300uの発掘調査を行いました。この遺跡は1985年に古ふ るたまさたか田正隆氏によって調査され、縄文時代の地層が確認されています。  この原稿を書いているのは、まさに調査中の時期ですので、全体的なことがまだ書けないことをご了承下さい。  調査をしていると、周囲と明らかに土の色が違う箇所が見つかります。しかもかなり整った楕円形や正方形の形をしています。さらに同じような土器片といった遺物が結構出てくる。そのような遺構(昔の人が何らかの目的で掘った箇所)である可能性があります。今回も見事な楕円形の遺構が見つかりました。  掘っていくとすごく深い。火砕流層(今から2万年位前のもの)まで掘り込んでいました。この火砕流層はものすごく固く、現代人が鉄製の鍬で掘るのも大変な作業です。固い地層を恐らく縄文時代の人々は石器で掘ったのでしょうから、気合が違います。  縄文土器や石器などを見ていても感じるのですが、縄文時代の人々の一つのことに対する集中力の高さ。  私も見習わないといけません。 ▼問い合わせ先 社会教育課 (68-8012) (写真)長貫A遺跡を発掘中の吉岡隊員