●ふるさと再発見 忠精公は忠侯(ただよし)公の第4子で、先代の忠誠公の同母弟になります。 忠誠公の急逝を受けて、藩主となりました。  忠誠公の頃からの課題であった海防政策においては、島原城下に台場を築いたほか、広く銅器を徴収して大砲も鋳造しました。  しかし、その後も長崎には西欧諸国の船が来航したため、警備兵を派遣する必要がありました。  ペリーによる浦賀への「黒船来航」も1853(嘉永6)年と、忠精公の時代にあたります。  このような外国からの圧迫に対抗するための海防費がかさみ、藩の財政を圧迫することとなりました。加えて、風水害や干害により、収入も減少していましたから、藩政に追い打ちをかけます。  このような世相の中、農村では痘瘡(とうそう)やトンコロリ病(コレラ)が流行し、農村部をさらに疲弊させました。  そこで、藩は藩医の賀来佐一郎に種痘(しゅとう)を学ばせ、1849(嘉永2)年に城内の済衆館(さいしゅうかん)において種痘を実施しました。  忠精公は、庄内藩主酒井忠器(さかい ただかた)の娘・ヌ子(せいこ)(俊光院(しゅんこういん))と1854(安政元)年に結婚しますが、2年後に先立たれてしまいます。1858(安政5)年には、宇和島藩伊達宗紀(だて むねただ)の娘・正子(真鏡院(しんきょういん))と結婚します。  忠精公は、1859(安政6)年、6月28日に28才で亡くなりました。  真鏡院の墓は松平家墓所(現・本光寺)に建立されています。また、本光寺常盤(ときわ)歴史資料館には真鏡院にまつわる資料も所蔵されています。  この真鏡院を通じた宇和島藩伊達家との繋がりは次代・忠淳(ただあつ)公へ引き継がれていくことになります。 (地域おこし協力隊 吉岡 慈文) (出典:『三百藩藩主人名事典』4) (写真)真鏡院が嫁入り道具として持参した蒔絵漆器と長持(本光寺常盤歴史資料館所蔵) ●地域おこし協力隊コラム 協力隊、なんしよっと? 地域おこし協力隊 庄司 航(しょうじ わたる)  私の地域おこし協力隊としての活動の大きな目的の一つとして、島原市の芸術文化活動を活性化することがあります。  とはいえ創作は鑑賞よりもハードルが高く、はじめの一歩を踏み出しにくい人もいるでしょう。そこで市民のみなさんに創作の楽しさを知ってもらおうと、これまでに島原城での子どもを対象にした「漫画講座」、島原アミューズメントカフェズでのパソコンを使った「作曲講座」を行ってきました。今回それをさらに発展させて、次のような初心者向けの創作連続講座を企画しました。さまざまなジャンルを取り扱っています。関心のある人は、ぜひご参加ください。  第1回目は12月21日(土)に開催します。内容は漫画制作の方法について解説をし、実際に漫画の設計図である「ネーム」を作ってもらう予定です。  第2回目以降は、映画の脚本、絵、作曲、作詞、小説の回と続きます。場所は島原市万町商店街にある「コワーキングスペースH.U.B」、定員は各回10人程度です。お申込み、お問い合わせはnzurisanainfo@gmail.com か090‐9720‐3426にご連絡ください。  また詳細は「アトリエ ンズリ・サナ」のウェブサイトをご覧ください。 ▼問い合わせ先 社会教育課(内線652) (写真)漫画制作中の庄司隊員