◎ふるさと再発見 第17代島原城主 松平 忠淳(ただあつ)公(1841-1860) 先代の忠精(ただきよ)公の急逝後、養子として、伊予宇和島藩主伊達宗紀(むねただ)の息子を藩主として迎えました。これが忠淳公になります。  忠淳公の3歳年上の姉が忠精公の継室(けいしつ)であった真鏡院(しんきょういん)にあたります。  1859(安政6)年12月に弱冠18歳で忠淳公は藩主となりました。その直後、家臣たちに対して、「私は島原藩主を継ぐこととなったが、まだまだ未熟者であるので、皆の意見を聞きながら政治を行っていきたい。補佐してほしい。」と述べ、領民に宣布させたと伝えられています。今で言うところの施政方針でしょうか。  深溝(ふこうず)松平家は養子を迎えて家督(かとく)を繋いできましたが、従来は深溝松平家と血縁の繋がりがある人を迎えてきました。その中で、忠淳公は初めて、深溝松平家の血縁者以外から迎えられた藩主となります。  1860(安政7)年3月3日に発生した桜田門外の変では、井伊家を弔問させ、万一の事態に備えて島原の藩兵を呼び寄せて江戸屋敷の守備を固めさせました。  しかし、持病となっていた脚気から心不全(衝心(しょうしん))となり、わずか1年足らずで江戸で亡くなりました。死後は、慣例通り深溝松平家の当主として深溝の松平家墓所に埋葬されました。  19人いる歴代の島原藩主の中で、島原の地を踏むことがなかった藩主は忠淳公だけになります。  宇和島藩の史料には、幼い頃の忠淳公について書かれているものも残っているようですので、今後も調査をしていく中で、どのような人物だったのか明らかになっていくことでしょう。 <地域おこし協力隊 吉岡 慈文> <出典:『三百藩藩主人名事典』4、    『宇和島伊達家の女性たち』    (宇神 幸男(うがみ ゆきお))> (写真)「本光寺観音堂に祀られる忠淳公の位牌」 ◎地域おこし協力隊コラム 協力隊、なんしよっと? 地域おこし協力隊 上田 友(うえだ とも)  「島原で暮らす日々の生き甲斐(がい)や、誇りを見つけていきたい。」  これは一年前に、このコラムで書いた一文です。  観光客が活用するものでありながら、地元の人も楽しめるようなものをと描いた「KokonNiki Map(ここんにき マップ)」。 配布した各店でこの観光マップを活用してもらっています。額装して店内に飾ったり、コルクボードに貼って一番目立つ所に置いたり、レジカウンターに貼ったり、コピーして紙袋にしてみたり…。このまちの人たちが、マップをジブンゴトにしているようです。そして、「静観してはいけない。」「自分たちがやらんといかん。」といった声も上がることに、私はとてもやりがいを感じています。  このプロジェクトを多くのメディアで紹介していただいたおかげで、新聞記事を読まれた市民と思わぬ出会いもありました。  「みなと島原」で生まれ育ち、長年暮らす東京から帰郷されたそうです。故郷のマップが欲しいけど、高齢のため外出が困難ということなので、直接渡しに伺いました。高齢者学級での「ぬり絵マップ」も一緒に。マップを指さしながら、このまちを語り合う時間にとても感動しました。  地域おこし協力隊になり一年が経ちました。振り返ると、会うべき時に会うべき人と出会い、共に島原への誇りや愛着を再発見してきたなと思います。これからも「子どもたちが誇りを持てる島原探し」をしていきたいです。それが私たち大人の役目だと思います。 ▼問い合わせ先 政策企画課(内線146) (写真)島鉄の黄色い列車を背景にKokonNiki Mapを広げる上田隊員