◎輝く島原人Vol.31 地域と築く 島原の礎(いしずえ)  広報しまばらでは、生き生きと活動し、楽しみながら社会に貢献する人生の達人たちを「輝く島原人」として紹介しています。第31回目は、島原市や地域住民の発展のために多方面で活躍している阿南 達也(あなん たつや)さんを紹介します。 「人生の達人」阿南 達也 さん(81)  昭和13年、7人兄弟の末子として大分県豊後大野市で生まれ、育つ。地元の高校卒業後、大牟田市で就職。昭和41年に島原市へ移住、観光業に就き島原温泉の認知度向上、観光客や各種スポーツ大会の誘致などに尽力。島原復興アリーナ勤務時、県内外のイベントを呼び込み、島原の観光・スポーツ・文化活動の基礎を築く。NPO法人島原薬草会長(平成17年~)、安中地区町内会連絡協議会長(平成30年~)。秩父が浦町在住。 (写真)島原復興アリーナ(平成町多目的広場)に立ち、笑顔を見せる阿南さん ○スポーツ・観光都市の実現を目指して  島原へ移住した昭和41年当時、長崎国体の開催を迎え、市や関係業界は盛り上がりをみせていました。観光業に就いた阿南さんは、業界全体で島原温泉をアピール、旅館をはじめ個人宅でも利用されるようになり、その勢いはしまばら温泉不知火まつりの開催などへつながりました。  「大牟田から移住し、何も分からなかった私を支えてくれた職場や関係業界、そして地域の皆さんには今でも頭があがりません」と、当時を振り返りながら話してくれました。  そのころ島原は修学旅行生や一般観光客で賑わい、目が回るほどの忙しさでした。それでも、島原の美味しい食材や優しい人々を多くの人に知ってもらいたいと、「スポーツランド島原」を目指しサッカーを中心としたスポーツ大会や、島原文化会館を利用した文化イベントの開催で交流人口を増やすために奮闘しました。  宿泊施設やスポーツ施設器具の不足に悩まされながらも、関係者全員で島原半島を駆け回り、手作りの得点板や歓迎看板を作るなど苦労の連続でした。今でこそ2万人を超えるスポーツ・文化イベントの誘致が実現していますが、島原の発展当時に関わった多くの関係者と、陰で支えてくれた人々の苦労と努力があることで、今につながっていること教えてくれました。 ○安中の地で生きる覚悟  雲仙普賢岳噴火災害の終息後、平成10年に復興のシンボルとして建設された島原復興アリーナに就職しました。  島原の人々を元気付けたい思いで九州の関係団体を訪問、各種イベントへの利用を呼びかけました。当時は噴火災害の風評被害もあり、利用する団体は少なかったそうです。それでも阿南さんらの熱い思いが届き、サッカーや野球、バドミントンや駅伝など多くの団体が協力してくれました。その多くが今も利用を続けており、「復興直後から協力してくれた皆さんには感謝の念に堪えません」と話してくれました。  平成23年から秩父が浦町内会長に就任、子どもや一人暮らしの高齢者などの見守り活動を続けるなど町内の絆を強めています。また、島原警察署と連携した犯罪抑止活動の「犯罪なく3ば運動」を地域一体となって実施、その実績が認められ、先日署長感謝状を受賞しました。  「住民が手と手を取り合って、自分の命は自分で守る」を合言葉に自主防災会組織を再編、新たに作り上げた安中地区自主防災会を柱に「安全安心に住みやすい暮らしやすい、温もりのある安中の町」を作るまで安中の皆さんと頑張り抜きたいと、今の心境を熱く語ってくれました。 (写真上右)安中地区町内会連絡協議会を代表して、警察業務推進功労の署長感謝状を受賞 (写真上左)島原防災塾で防災教育の大切さを子どもたちに指導 (写真下)安中地区自主防災会で作製に携わった防災マップを横田会長と一緒に確認