◎ふるさと再発見 第18代島原城主 松平忠愛(ただちか)公(1845〜1862)  先代の忠淳(ただあつ)公の急逝のため、深溝松平家の支族から迎えられたのが忠愛公です。忠愛公の父は忠侯(ただよし)公の弟で、忠精(ただきよ)公の娘・こう子と将来的には結婚させて継嗣(けいし)させる考えのもとで、襲封(しゅうほう)しました。  1861(文久元)年に島原城に入城しましたが、忠愛公の治世においても外国船警備が重要な課題となっていました。  肥前島原松平文庫に所蔵される資料群の中に、「宮川家資料」という一群があります。宮川家は島原藩に おいて砲術を指南する家系でした。幕末期には藩兵の近代化を目指していたと考えられます。  資料群の中には台場(砲台)図面や西洋製大砲の図面などが確認できます。中でも、「口之津港要図(ようず)」や「加津佐村水月御臺場内見之図(かづさむらすいげつおだいばないけんのず)」は、島原半島南部の海岸にどのような台場を構築していたのかを考える上で、興味深い資料といえます。  この他にも長崎に佐賀藩が築いた四郎ヶ島台場や江戸の品川台場などの図面もあることから、島原藩が大砲や台場構築の調査・研究をすすめ、海防(かいぼう)に活かそうとしていたことがうかがえます。  また、藩士たちがさまざまな先端技術を吸収しようとしており、技術者としての性格が濃くなっていくこ とも興味深い点といえます。  1862(文久2)年4月、参勤のために島原城を発った忠愛公でしたが、その途上、長門国小郡(ながとのくにおごおり)にて痲疹(ましん)にかかってしまいました。療養の後、江戸に到着しますが7月7日、18歳で亡くなりました。当初考えられていたこう子との婚儀も調わないうちの早逝でした。  地域おこし協力隊 吉岡 慈文(よしおか ひろふみ) 【参考文献】出典:「三百藩藩主人名事典」4・「長崎県人物伝」 (写真)「八ホント野戦銃正図(ぱちぽんどやせんじゅうせいず)」(肥前島原松平文庫所蔵、宮川家資料384-9) ◎地域おこし協力隊コラム 地域おこし協力隊 庄司 航(しょうじ わたる)  市民の皆さんに島原の歴史を理解してもらうため、島原図書館の2階にある「肥前島原松平文庫」に所蔵されている「墨是可新話(めしこしんわ)」を漫画の形にする試みをしています。  江戸時代末期に島原出身の船乗り太吉ほか12名が乗る永住丸は嵐に遭遇し難破、その後4カ月間の漂流の後、スペイン船に救助されます。その後メキシコでの4年間の滞在の後、太吉は島原への帰還を果たしました。  「墨是可新話」は蘭学者 賀来佐之(かくすけゆき)が太吉からそれらの経験を聞き取った記録で、漂流中の苦難、メキシコでの生活、当時のメキシコの風物など、さまざまなことが記録されています。これらの興味深いエピソードの数々を面白く市民の皆さんに伝えることができるよう努力しています。完成後は印刷物の形で各所に配布し、またウェブ上でも読めるようにする計画です。  実は江戸時代、太吉のように船が難破して外国で暮らすことを余儀なくされるケースが多くあり、異国で生涯を終える人も少なくありませんでした。漫画を読んでそうした人々の数奇な運命に思いを馳せるとともに、こうした貴重な資料が島原市内の施設に所蔵されていることを知っていただければ幸いです。 ▼問い合わせ先 社会教育課 (内線652) (写真)墨是可新話を漫画にする試みをしている庄司隊員