◎ふるさと再発見 第19代島原城主 松平忠和(ただかず)公(1851〜1917)  1862(文久2)年、前藩主の忠愛(ただちか)公が在位わずか3年、18歳で死去したため、後継者が途絶えてしまいました。 このような緊急事態の中で、藩は喪を秘して後継者を探した結果、水戸藩の徳川斉昭(なりあき)の16男であった昭嗣(あきつぐ)(後の忠和公)に白羽の矢が立ちました。昭嗣はわずか12歳でした。兄に、のちに徳川幕府最後の将軍となる一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)がいます。  忠和公の治世には、島原半島沿岸の防備を強化し、島原城三の丸外庭に閲兵場(えっぺいじょう)を設けて調練場をつくるなど、兵制改革が推進されました。  一方で、2度に及ぶ幕府と長州藩の戦いでは、兄・慶喜に応えて幕府方として出兵しましたが、このような幕府寄りの姿勢に藩内の下級士族の中で不満が募り、要人暗殺などの事件に発展しました。  1867(慶応3)年の大政奉還に引き続いた戊辰戦争では、奥羽雫石(おううしずくいし)(現・岩手県雫石町)まで出兵しました。  1869(明治2)年、版籍(領地と領民)を奉還して、島原知藩事(ちはんじ)に任命され、1871(明治4)年の廃藩置県により島原藩は消滅してしまいました。  その後、忠和公は家臣2名と欧米を視察しており、松平文庫では、シカゴから送られた旅行記の写しやロンドンで撮影したとされる写真を所蔵しています。  忠和公は、1884(明治17)年に子爵(ししゃく)に列せられ、1885(明治18)年に宮内省に出仕(しゅっし)し、1917(大正6年)67歳で亡くなりました。  島原藩消滅後も旧藩士たちとの交流があったことが、松平文庫に所蔵される資料からもうかがえます。 ▼問い合わせ先 社会教育課(内線652) 【参考文献】出典:「三百藩藩主人名事典」4、「深溝世紀」巻23・附録 (写真)洋行中の忠和公(中央)たち ◎地域おこし協力隊コラム 地域おこし協力隊 上田 友(うえだ とも)  皆さんも利用される国道251号では〈島鉄〉と並走することがあるでしょう。かわいい姿をしながら、ディーゼルカー独特の揺れで力強く走る黄色い列車。  昨年12月から今年の4月まで、島原鉄道に乗って各駅を紹介する番組〈DokonNiki?KokonNiki!(どこんにき?ここんにき!カボチャテレビ)〉を放送しました。島原市内には8駅(島原港駅〜有明湯江駅)があり、それぞれ〈山の見え方〉が違います。大きく荒々しい眉山から始まり、少しずつ平成新山が見えてきて、並び、離れていく二つの山と、新たに見えてくる山々。その辺りでは眉山は形を変え小さくなります。  島原港駅から諫早方面へ上りながらロケをしましたが、同じ市内でも駅ごとに景色や音や匂いなどの魅力が異なり、島原の暮らしを感じることができました。今までは、何気ない風景でしたが、ロケ地に向かう途中に通過する各駅で、出会った人たちの笑顔を思い出し、「ここんにき」(この辺り)に愛着が生まれます。国道側からの風景も、線路側からの風景も、今日の島原。日常の向こう側から見る日常に新鮮さを感じます。  いつもと少しだけ見方をかえると、皆さんが暮らすこのまちの再発見があるのではないでしょうか。 ▼問い合わせ先 政策企画課(内線146) (写真)大三東駅にある黄色いハンカチを眺めながら歩く上田隊員