つなごう!未来へ 島原半島世界ジオパーク51 島原半島ジオパーク推進連絡協議会(65-5540) 巨大噴火と歴史との関わり―原城跡―  今月号から、島原半島ジオパークの見どころ「ジオサイト」を紹介していきます。  ジオサイトとは ジオサイトは、地形や地層、岩石を観察するだけでなく、地球活動と人々との関わりを楽しむ場所の事です。  原城跡 第1回目は、1938(昭和13)年に国の史跡に指定され、現在、世界文化遺産の本登録を目指している、南島原市南有馬町の「原城跡」です。  原城は、島原半島を治めていた有馬氏の本城・日野江城の出城として、安土・桃山時代に築城されました。江戸時代に入ってすぐの1604年には、城はさらに新しく作り直されましたが、1616年には有馬 直純が日向延岡に転封され、代わって松倉重政が入封。重政の命により、1618年に島原城の築城が始まると、「一国一城令」に倣い、原城は日野江城と共に廃城になりました。  1637年には、有名な「島原・天草一揆」が勃発。唐津藩天草領の領民と合わせて約3万人(諸説あります)の一揆軍と、12万ともいわれる幕府軍との戦闘は80日間にもおよび、最後は内通者一人を除いて全員が討死する、という悲劇を招きました。  徳川幕府を震え上がらせ、日本の鎖国政策を加速させるきっかけとなった大事件の舞台となった原城は、「原の島」と呼ばれる海に突き出た高さ約30mの高台を利用して建てられたものです。この高台の上半分 は、およそ9万年前、現在のカルデラを造った阿蘇山の巨大噴火で生じた大規模火砕流の堆積物です。もし、この火砕流が発生していなかったら、この一揆はどのような経緯をたどったのでしょうか。  次月号は「眉山と島原大変」を紹介します。 (写真)原城があった高台 上半分は阿蘇山の巨大火砕流の堆積物で出来ています (写真)原城跡の海岸沿いに露出する地層 阿蘇山からの巨大火砕流の堆積物が、間近に観察できます (写真)原城の本丸跡 突き出た石垣は砲台の跡です (写真)「幻の一夜城」 毎年4月中旬に行われる「原城一揆まつり」では、一揆で亡くなった人を、約4万本のキャンドルの灯で追悼します