つなごう!未来へ 島原半島世界ジオパーク63 島原半島ジオパーク協議会(65-5540) ●島原城〜4000年前の火山噴火と山崩れが生んだ観光名所〜 毎月、島原半島内のジオサイトやその見どころを紹介するこのコーナー。今回は島原市内にある島原城です。 ▼島原市のシンボル  島原駅の改札をくぐると、正面に5層の天守を兼ね備えた、風光明媚なお城が目に入ります。島原城は、1616年( 元げ んな和2年)に奈良・大和の国から移封してきた松倉重政公が築城しました。 明治に入り、天守は解体されましたが、1964年(昭和39年)に天守が再建された後は、名実ともに島原市のシンボルになっています。  通常、お城の多くは、天守のまわりを堀や塀が同心円状に取り囲んでいますが、島原城は天守が南に偏って設置され、敷地が北に細長く伸びた、特徴的な形をしています。今の第一小学校や島原高校がある場所(三の丸)も、島原城の城内です。  築城当時、現在の島原文化会館(二の丸)と本丸広場の間には廊下橋がかけられており、敵が攻め入ってきた時はこの橋を落として籠城する仕組みを作っていました。城の南側に築かれた広い堀と、石垣を幾重にも折り重ねてつくった高石垣は、死角をなくして敵からの攻撃に備えるためのものでした。  1615年(元和元年)に徳川幕府が発布した「武家諸法度(ぶけしょはっと)」により、当時、新しい城を築くことは厳しく制限されていました。にも関わらず、島原城が築城されたのは、キリシタンの取り締まりの強化を徳川幕府が期待したためではないか、と言われています。  しかし、石高4万石の島原藩にとって、この城は明らかに規模が大きすぎました。築城のための過酷な労役や税の取り立て、キリシタン弾圧に加え、数年続きの飢饉が領民の生活を圧迫しました。  この圧政が、その後の「島原・天草一揆」の勃発を招きました。この一揆の際に、島原城は一揆軍から激しい攻撃を受けました。天下泰平の江戸時代において実際の戦乱を経験したことも、島原城の特徴の一つです。このように、他に類を見ない経歴を持つ島原城は、なぜ今の場所に築かれたのでしょうか。  約4000年前、現在の眉山をつくる火山噴火が起きました。この時、今の眉山がそびえている場所にあった古い山が噴火によって崩され、北側に土砂を流し、たくさんの小高い丘をつくりました。島原城は、その中にあった「森岳」と呼ばれた小高い丘を利用して建てられたものです。海に近く物資の輸送がしやすいこと、豊富な湧水、そして城を築くのに適した小高い丘という立地条件が、松倉公にこの地に城を築くことを選ばせたのでしょう。  今は島原の観光名所として賑わう島原城には、約4000年前の火山噴火と山崩れ、そして、それを利用した先人達が引き起こした、幾多のドラマが隠されています。  次回は「仁田峠のミヤマキリシマ」を紹介します。 (写真)島原城の5層の天守 (写真)森岳商店街によって期間限定で再現された「幻の廊下橋」 (写真)南側に築かれた幅広の堀と、幾重にも折り重なった高石垣 (写真)天守閣展望所から見た市街地