●ふるさと再発見 ○明治維新を迎えた島原城  1869年(明治2)、島原藩主松平忠和(まつだいら ただかつ)は、これまで治めてきた土地と人民を朝廷に返上し(版籍奉還)、島原藩知事に任命されます。  「明治維新」の名のごとく、この時期さまざまな改革が推し進められていく中で、藩主の公私ははっきりと区別されていきます。  政務はこれまでどおり三ノ丸御殿で行われますが、従来三ノ丸御殿は藩主の住居を兼ねていました。  ところがこの時、御殿の後庭の一角に館舎が建てられ、12月、忠和はそこへ移り住 みます。  その館舎は「甲第(こうだい)」と 名付けられ、政庁とは明確な境界によって分けられました。  1871年(明治4)7月、忠和は知事の職を解かれ、藩が廃されて県が置かれます(廃藩置県)。  職を解かれた忠和とその家族は、翌月以降東京に移り住みます。   廃藩置県によって、旧島原藩領にはそのまま島原県が置かれましたが、 11 月には島原半島の領域が長崎県に編入されます。  そして、三ノ丸御殿は島原県 庁舎としても用いられたようですが、島原県がなくなった後は利用されないまま、1873年 (明治6)に 85円で落札されます。  そのことを記した資料には、島原県庁舎の様子が、「年数を経た古家のため腐れ朽ち、それでいて大きな建物のため、崩そうにも手数が掛り容易でない」 と記されています。  この状態は、そのほかの天守や櫓も同様で、廃藩置県の年に大門が解体され、1876年 (明治9)ころまでに、ほとんどの城の建物が姿を消すこととなります。 (松平文庫学芸員   吉田信也(よしだ しんや) (写真)建物のない島原城本丸の様子 ●クローズアップ  ○「杉谷コスモス会」  (写真)杉谷コスモス会会員の集合写真     7月の早朝、雑草が生い茂げる中尾川の河川敷に作業着姿の人たちが 集まり、トラクターや草刈り機で一斉に除草作業を始めました。  今回、紹介するのは、杉谷地区で さまざまなまちづくりの活動をしている「杉谷コスモス会」の皆さんです。  「杉谷コスモス会」は、平成8年 から活動が始まりました。現在、杉谷地区の農業後継者を中心とした約20人が、年2回(7月・ 12 月)、中尾川の除草を行うほか、その散策路などにコスモスやひまわり、アジサ イの植栽を行っています。  会長の堀川邦夫(ほりかわ くにお)さんに話を伺うと、「会では、中尾川の除草・植栽だけでなく、正月の鬼火や健康ウォーキングなど、地元の人たちが一緒にできるイベントにも携わっています。こうした活動を行うことで地域の一体感ができてきます。これからも活動を続け、地元の人たちが誇れるまちにしていきたいです」と笑顔で話してくれました。  杉谷地区のまちづくりに興味のある人は、杉谷公民館(電話63−2231)または、会長の堀川さん(電話63−0389)に問い合わせてください。  (写真1〜4)「杉谷コスモス会」の会員が除草している様子    @中尾川の河川敷を草刈り機で除草している様子    A中尾川の河川敷をトラクターで除草している様子    B中尾川の河川敷の除草前の様子    C中尾川の河川敷の除草後の様子