国指定の史跡の旧島原藩薬園跡は、幕末における小藩経営の薬草園とはいえ、「日本三大薬園跡」の一つに数えられ、奈良、鹿児島の薬園跡に比べても、よく遺構をとどめた第一級の史跡です。
島原藩主・松平忠誠は、1842(天保13)年に長崎で西洋医学を広めたオランダ人シーボルトの高弟で、豊州佐田村(島原領)在住の賀来佐一郎を医師として招き、翌14年藩の医学校(済衆館)の薬園に、薬草を栽培させました。この薬園は手狭な上に薬草の栽培には条件が良くなかったため、1846(弘化3)年、藩臣飯島義角を薬園主任として、雲仙岳眉山のふもとに薬園を開墾させました。その後、嘉永年代になって、賀来、飯島の両名に命じて薬園の拡張工事を行わせ、1853(嘉永6)年完成しました。これが現在の薬園跡です。薬園の開発には、厳格な出仕定を設け、出仕時間、早引などの細部まで定め、松林を開墾し、石垣を積み、薬園方役人の慣れない重労働が続きました。
薬園が完成した年に、藩主は賀来、飯島など関係者に褒賞を行っています。島原藩は、1792(寛政4)年の大変災後、財政に窮乏をきたしていたため、栽培した薬草を各藩に売り、財政を豊かにする方針であったといわれます。こうしてようやく完成した薬園も廃藩と共に十分な機能を果たすことなく、1869(明治2)年廃止となりました。
薬園跡の面積約10000平方メートル、東、西、北の三方を石垣で囲み、南は堤防となっています。園内は道路をはさんで南、北に区分され、段々畑になっています。西隅に、薬園方詰所跡、薬師仏の石厨子があります。昭和49年から、発掘調査、遺構の復元・整備に着手。これまでに石垣、屋敷跡、建物跡、貯蔵穴、貯水槽などが復元され、当時の面影を再現しています。
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