島原城のお正月
今回は初代松平島原藩主・松平忠房(まつだいら ただふさ)が島原に入って間もない1670年ごろ(寛文年間)にさかのぼり「島原城のお正月」についてのお話しです。
島原藩の政務を記録した『藩日記』をのぞいてみると、元旦の忠房は、寅の前刻(4時ごろ)に起床し、以後数日にわたって各人からの「御礼(年始の挨拶)」を受けます。
番人・町人や庄屋・乙名(おとな)(村役人)なども「御礼」に参上し、料理や雑煮や酒肴(しゅこう)が振る舞われています。九州の諸藩などからの「御祝儀」(今でいう年賀状)が飛脚によって届けらます。
正月の恒例行事の一つ、「御謡初(おうたいはじめ)」も行われました。
ただ1673年(寛文13年)は、保科正之(ほしな まさゆき)(陸奥会津藩主、徳川家光の弟)が前月に亡くなり、音曲停止が幕府より発令されたため、正月10日に日延べして行われました。
この時のお囃子(はやし)の演目が「老松(おいまつ)・東北(とうぼく)・高砂(たかさご)」だったことも記録されてます。
また、この年は忠房が初夢で富士山を見たようで、それを披露するための内々の「御謡初」も行われました。
料理の振る舞いや夢の披露で幸せを分かち合う。自分だけでなく周りを幸せにするような、そんなお正月にしたいものです。
(松平文庫学芸員 吉田 信也(よしだ しんや))
(『広報しまばら』平成27年1月号「ふるさと再発見」)
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松平忠馮(まつだいら ただより)の書状(お殿様の年賀状)(松平文庫蔵) |