島原市
ホーム  >  分類から探す  >  いざというときに  >  防災情報  >  災害復興伝承碑(さいがいふっこうでんしょうひ)
ホーム  >  分類から探す  >  いざというときに  >  防災情報  >  災害伝承碑  >  災害復興伝承碑(さいがいふっこうでんしょうひ)
ホーム  >  分類から探す  >  くらしの情報  >  消防・防災  >  防災情報  >  災害復興伝承碑(さいがいふっこうでんしょうひ)
ホーム  >  組織から探す  >  市民部  >  市民安全課  >  災害対策班  >  災害復興伝承碑(さいがいふっこうでんしょうひ)

災害復興伝承碑(さいがいふっこうでんしょうひ)

市民部 市民安全課 災害対策班 TEL:0957-63-1111(内線242) FAX:0957-62-3678 メールanzen@city.shimabara.lg.jp
 

災害復興伝承マップ(看板)を設置しました!(雲仙岳災害記念館玄関前)


【Web用幅970pixel】島原半島雲仙普賢岳噴火災害復興伝承マップベース

■伝承碑のエリア別目次  



 

旧大野木場小学校/大野木場監視所(きゅうおおのこばしょうがっこう/おおのこばかんしじょ)

 
 

 

(1)被災いちょうの木(ひさいいちょうのき)

1_被災いちょうの木

大野木場小学校は、1991年9月15日に発生した火砕流(かさいりゅう)にともなう熱風によって焼失しました。校舎敷地内にあるイチョウの木も校舎とともに焼けてしまいましたが、翌年には鮮やかな緑の芽を吹き、地域の人々に元気を与えてくれました。

 

(2)火砕流被災校舎保存記念碑(かさいりゅうひさいこうしゃほぞんきねんひ)



2_火砕流被災校舎保存記念碑

大野木場小学校は、1991年9月15日に発生した火砕流(かさいりゅう)にともなう熱風によって焼失しました。この被災校舎は被災当時のままを今でも保存しており、噴火災害の凄まじさを伝えています。

2-2_火砕流被災校舎保存記念碑2-3_火砕流被災校舎保存記念碑

2-4_火砕流被災校舎保存記念碑

 

(3)大野木場監視所碑文(おおのこばかんしじょひぶん)

3_大野木場監視所碑文

雲仙・普賢岳噴火災害から復興まで、地域住民と連携し、円滑に直轄砂防事業が行われ、被災地の復興への喜びと感謝の意を込め設置した碑
 
3-2_大野木場監視所2
 
 

(4)無人化施工発祥の地(むじんかせこうはっしょうのち)

4_無人化施工発祥の地

雲仙・普賢岳噴火災害を契機に開発された無人化施工技術が島原の地で進化を遂げ、「無人化施工発祥の地」として、国内外に広く周知することを目的に設置した碑

ふかえ桜パーク(ふかえさくらぱーく)


 

(5)雲仙岳噴火災害農地再生記念之碑(うんぜんだけふんかさいがいのうちさいせいきねんのひ)

5-1_雲仙岳噴火災害農地再生記念之碑5-2_雲仙岳噴火災害農地再生記念之碑-1

5-4_雲仙岳噴火災害農地再生記念之碑

5-5_雲仙岳噴火災害農地再生記念之碑-3
【碑文】平成2年(1990年)11月17日、198年ぶりに突如噴火した雲仙岳は、我が国火山災害史上類をみない火砕流、土石流により44名の尊い命を奪い、数多くの建物、農地に甚大な被害をもたらした。更に長期間の警戒区域設定による住居と農地への立ち入り規制のため、生活と営農の場を奪われた農家には壊滅的な打撃となった。その後、度重なる火砕流、土石流、降灰に悩まされながらも、被災農家の強い熱意のもと官民一体となり、地域農業の再生と災害に強い農業を目指して被災農地の周辺部を含む321haを一体的に整備してきた。事業完成にあたっては、国・県・市・町の補助に加え、雲仙岳災害対策基金並びに全国からの物心両面の支援に負うところ大である。ここに、雲仙岳噴火災害農地復旧・復興事業の完成を記念し、この碑を建立して後世に伝える。
 平成11年2月吉日 島原深江土地改良区理事長

 

(6)博愛の塔(はくあいのとう)

6-1_博愛の塔6-2_博愛の塔-1

6-3_博愛の塔

【碑文】平成3年(1991年)6月3日、約200年振りの雲仙普賢岳の噴火による大火砕流の発生に伴い、高田勇県知事の緊急要請を受け、自衛隊災害派遣隊がその日のうちに現地入りした。遺体捜索活動、緊急堤防工事、常時監視活動等々撤収まで派遣人員延べ207,225人、派遣日数1,658日に及ぶ史上最大の救済活動を野営生活のなか献身的に行った。この自衛隊員の博愛心ある姿に、島原地域住民は安心感と励ましを受け、再び希望を持つことが出来た。その感謝の気持ちを永遠に残し、子孫へ伝えるため、この博愛の塔を建立する。
 平成10年2月21日 自衛隊災害派遣隊顕彰碑建立委員会委員長

 

(7)災害復興の碑(さいがいふっこうのひ)

7-1_災害復興の碑7-3_災害復興の碑-2

7-2_災害復興の碑-2

【碑文】平成2年(1990年)11月、雲仙普賢岳噴火。198年ぶりに煙を上げた普賢岳は、火山性地震や溶岩崩落を繰り返し、翌3年6月大火砕流が大火砕流が発生、43名の方々が尊い犠牲となった。その後、火山活動の鎮静化と共に、深く郷土を愛する人々の手によって、復興が進められ水と緑豊かなふる里の面影も少しずつ戻りはじめている。

碑の裏面には、「天皇陛下御製」と「皇后陛下御歌」のプレートが記されている。
≪天皇陛下御製≫
(雲仙岳噴火)人々の 年月かけて 作り来し なりはひの地に 灰厚く積む
≪皇后陛下御歌≫
(雲仙の人々を思ひて)火を噴ける 山近き人ら 鳥渡る この秋の日々 安からずゐむ
 
 

(8)火砕流最長到達点(かさいりゅうさいちょうとうたつてん)

8_火砕流最長到達点
≪1991-1995年普賢岳火砕流最長到達地点≫
198年ぶりに噴火した雲仙普賢岳は、3年9ケ月にわたって溶岩を噴出し、溶岩ドームを形成しました。この溶岩塊は、崩落の衝撃で砕けるとガスを噴出し、火砕流となって、山の斜面を駆け下りました。その回数は、目視されたもので6000回以上にも達し、家屋800棟余りが焼けました。ここが「最長到達地点」です。この火砕流は、1993年7月19日に発生したもので、火口からの距離は5.6km(国道57号線を約80m超えた地点)あります。
 

  

土石流被災家屋保存公園(どせきりゅうひさいかおくほぞんこうえん)


 

(9)土石流被災家屋保存公園(どせきりゅうひさいかおくほぞんこうえん)

9_土石流被災家屋保存公園9-3_土石流被災家屋保存公園

9-2_土石流被災家屋保存公園

平成2年(1990年)11月17日、198年ぶりに突如噴火した雲仙普賢岳の噴火による土石流が発生し、多くの家屋等が被災した。その被災時の状況を後世に伝えるため土石流により被災した現状のまま家屋を保存している公園
 
 

雲仙岳災害記念館(うんぜんだけさいがいきねんかん)


(10)故郷再生の碑(こきょうさいせいのひ)

10-1_故郷再生の碑10-2_故郷再生の碑

【碑文】平成3年
普賢岳は200年ぶりに咆哮した紅蓮の炎は天を焦がし暗黒の噴煙は太陽を覆った
壮絶な大自然の力に翻弄され櫛風沐雨(しっぷうもくう)の日々を過ごしながら
人々は不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を培い連帯の勁(つよ)さを識(し)った
山が静謐(せいひつ)を取り戻し穏やかな暮らしが蘇った今
石碑に託して永遠の平穏と繁栄を願う
石は黙して語らぬが啓示するものは果たして何か
宇宙悠遠の移ろいのなか疾風怒濤の時を生き抜いた
強靭なる心が伝承され故郷再生の礎とならんことを
 平成16年11月17日 島原生き残りと復興対策協議会

 

(11)雲仙岳平成溶岩(うんぜんだけへいせいようがん)

11-1_雲仙岳平成溶岩11-2_雲仙岳平成溶岩

11-3_雲仙岳平成溶岩

 ≪普賢岳 平成溶岩≫
種 類:デイサイト(石英安山岩)
重 量:30屯
採取地:水無川上流部

平成2年11月、198年ぶりに噴火した普賢岳は、想像を超えた2億立方米にも及ぶ大量の溶岩を噴出し、溶岩ドームを生成した。世界で最も新しい溶岩の誕生であり、我々と永く共存するものである。
その光景を眼前にして、普賢岳の壮大な鼓動と、それに共生調和しようとする人間の営みに深く共鳴するものである。
今次災害にお寄せいただいた全国の皆様の温かい御心に報いるため、速やかな復興を決意し、市民の総力を結集する象徴として、その一を選び、この地に移したものである。
 平成7年11月17日 噴火5周年に当たり 島原生き残りと復興対策協議会

(12)消防殉職者の碑(しょうぼうじゅんしょくしゃのひ)

12-1_消防殉職者の碑12-2_消防殉職者の碑

12-3_消防殉職者の碑

 【碑文】1990年(平成2年)11月17日、雲仙・普賢岳が山頂から白煙を上げ、198年ぶりに噴火活動を開始した。
はじめの頃は、穏やかであった活動が徐々に活発になり土石流や火砕流が発生したため、避難勧告が発令され、消防団員が昼夜を問わず、監視活動や住民の避難誘導に当たっていた。
翌年6月3日、午後4時8分発生した、予想もしなかった大火砕流に飲み込まれ、監視に当たっていた消防団員12名を含む43名の尊い人命が奪われるという大惨事となった。
我々消防団は、同胞の団員が殉職したことに対し、悲痛な衝撃を受け、残された遺族のことを思うと心を痛めるばかりであった。
我々は殉職した消防団員の崇高な郷土愛と不屈の消防精神を消防人の鑑として受け継いでいかねばならないと改めて決意した。
殉職した団員に対しては、二階級特進がされ、国からは著しい功績が認められ死亡叙勲が授与された。
1996年(平成8年)6月、雲仙・普賢岳の噴火活動の終息を迎え、地域防災のため殉職した団員の勇敢な行動をたたえ、この功績を末永く顕彰し、安らかなご冥福をお祈りするとともに、後に続く消防人の心を奮い立たせるため、この慰霊碑を建立する。
なお、この慰霊碑は全国の消防関係等の皆様から寄せられた心温まる義援金を浄財にさせて頂いた。
 1999年(平成11年)11月17日 島原市消防団長

上木場地区(かみこばちく)  ※上木場地区については入場規制があります。

 
 

(13)定点三角錐(ていてんさんかくすい)

13-1_百合の畑213-5_百合の畑5

13-6_百合の畑613-7_百合の畑7

13-8_百合の畑8

13-3_定点三角錐
≪定点三角錐≫
この三角錐は、警戒区域であるため長い期間立ち入れなかった被災現場の現在の目印として建てられました。
「百合の畑」と言われた北上木場町のこの高台の道路沿いは、流れ下る火砕流が正面に見え、新聞やテレビ、通信の報道各社が定点撮影をしたことから「定点」とも呼ばれた。
1991年6月3日午後4時8分に発生した大火砕流により、この周辺では報道関係者、報道関係者が利用したタクシーの運転手、火山学者など多くの人が犠牲となった。
あの日から30年となるのを機に、私たちは記憶の風化を防ぐため定点周辺を整備保存し、雲仙普賢岳の災害教訓を未来に活かすことを誓う。
 2021年3月吉日 安中地区町内会連絡協議会 (※定点周辺については、各報道関係者等が協力して整備された。)


 

(14)雲仙岳災害記念碑(うんぜんだけさいがいきねんひ)

14-1_雲仙岳災害記念碑14-2_雲仙岳災害記念碑

≪雲仙岳災害記念碑≫
平成2年11月17日、この地から雲仙普賢岳に一条の白煙が望まれた。198年ぶりの雲仙普賢岳噴火災害の予兆であった。
この地は、西に普賢岳を仰ぎ、東に有明海を望み、豊穣の大地とともに春夏秋冬、自然の恵みを豊かに受け、穏やかな生活が営まれる里であった。
翌3年春頃から土石流、火砕流が続き、被害は拡大し、日本のみならず世界のニュースになっていた。最新の報道画像撮影のため、多くの報道関係者が集まった場所があった。「定点」と称される丘である。頻発する火砕流は、その到達距離を伸ばしながら、「定点」に近づきつつあった。
6月3日午後4時8分、想像を絶する大火砕流は遂に「定点」を越え、各々、持場で精勤していた消防団員、警察官、外国人火山研究者、報道関係者など43名の尊い人命を奪い、穏やかな山里のすべてを焼き尽くし、風景を一変させた。
多くの人命と財産を失って得たこの尊い教訓は、その後の雲仙普賢岳噴火災害対応に十分に活かされ、最先端の精密な火山観測、画期的な砂防工法等に結実し、世界の火山災害対策の模範事例と評されるに至った。
今、眼下には広大な砂防指定地の中に国土交通省雲仙復興事務所が総力を挙げて築造した砂防堰堤群が偉容を見せ、新たに生成した平成新山と向かい合っている。当時を思えば、隔世の感に打たれる。
ここに往事をを偲ぶとともに、この地で起こった災害の実情を伝え、火山との共生を願い、島原市発展のため、子々孫々に至るまで努力することを全市民とともに誓うため、この記念碑を建立する。
 平成19年11月 第5回火山都市国際会議島原大会の年に 島原市長

14-3_雲仙岳災害記念碑-114-4_雲仙岳災害記念碑

14-5_雲仙岳災害記念碑

≪平成新山の火≫
平成9年5月20日 正午 採火
東経130度17分59秒 北緯32度45分29秒 高度1435米
採火者 島原市・深江町・小浜町
協力機関 陸上自衛隊第十六普通科連隊、九州大学島原地震火山観測所
地球の火:マグマから採取した平成新山の火を災害教訓の伝承と復興への誓いのため未来を照らす炬火として ここに灯し続ける
 平成9年8月 島原市長 (令和3年6月3日に大手広場から「雲仙岳災害記念碑」の横に移設)

 

(15)北上木場農業研修所跡(きたかみこばのうぎょうけんしゅうしょあと)

15-1_北上木場農業研修跡地15-2_北上木場農業研修跡地

15-2_北上木場農業研修跡地1

【碑文】平家落人伝説が残る上木場は、人々により営々と築かれ、春は薄紅色の葉タバコの花に覆われ、秋には柿がたわわに実る、静かで自然豊かな桃源郷であった。 
平成2年11月17日、雲仙普賢岳は198年の永い眠りから目覚め、九十九島火口と地獄跡火口から噴煙をあげた。麓で暮らす上木場の住民は、畑を耕す手を休め、立ち上る二本の噴煙を仰ぎ見ていた。 
平成3年2月になると、噴煙は激しさを増し、大量の火山灰を山腹に降らせた。5月15日未明、土石流が発生、水無川は土石が溢れ、私たちは火山災害の始まりを知った。この日から、住民の避難が始まり、地元消防団員も寝食を忘れて懸命な監視・避難誘導活動を続けることとなった。 
土石流による避難を繰り返している最中、5月20日には、地獄跡火口に溶岩ドームが出現し、その成長とともに崩落を繰り返し、火砕流が発生した。まさに、水攻め火攻め泥攻めの惨憺たる状況であった。 
平成3年6月3日午後4時8分、水無川沿いに大規模火砕流が発生し、43名の尊い命を奪い、上木場は焦土と化した。 
ここ北上木場農業研修所では、ふるさとを守るために監視活動中の消防団員や、危険を知らせるために避難広報中のパトカーの機動隊員などが火砕流に呑み込まれた。 
「忘れない、私たちは、あなた達のことを」と誓い、今回の噴火災害の原点ともいうべき北上木場農業研修所跡で被災した消防車、パトカーなどと、北上木場農業研修所の建物基礎部分を、噴火災害の恐ろしさを伝える災害遺構として保存し、災害により移転せざるを得なかったふるさと上木場と災害の教訓を、後世に語り継ぐ。 
  平成15年11月17日  上木場災害遺構保存会 

【消防団被災車両保存】
15-3_北上木場農業研修跡地1消防団車両保存
平成3年6月3日午後4時8分、水無川沿いに大規模火砕流が発生した。
予想もしなかった大火砕流に飲み込まれ、監視に当たっていた消防団員12名を含む43名の尊い人命が奪われるという大惨事となった。
監視に当たっていた消防団等の被災車両を保存しているもの。

【慰霊の鐘】
15-4_北上木場農業研修跡地1慰霊の鐘15-5_北上木場農業研修跡地1慰霊の鐘

15-6_北上木場農業研修跡地1慰霊の鐘

【碑文】この半鐘は、昭和11年に20数棟が消失するという大火災の教訓から、上木場地区住民が浄財を出し合い、手押しポンプとともに購入した半鐘である。
半鐘は、営々と築かれた上木場の暮らしを見つめ続けてきたが、平成3年普賢岳噴火災害により、ふるさと上木場は壊滅的な打撃を受け、半鐘も火砕流に吹き飛ばされた。
その被災地から拾い上げられた半鐘は大事に保管され、このたび地区住民の元に帰ってきた。
ここに、平成3年度安中地区町内会連絡協議会・上木場復興実行委員会などからの浄財により、平成3年6月3日の火砕流犠牲となられた方々をいつまでも忘れることなく、災害による上木場の惨苦やその後の苦闘をしのび、多くの教訓を後世に遺すため、慰霊の鐘を建立する。
 平成15年11月17日 上木場災害遺構保存会

水無川1号砂防堰堤(左岸)(みずなしがわ1ごうさぼうえんてい(さがん))


(16)雲仙・普賢岳直轄砂防事業完成記念碑(うんぜん・ふげんだけちょっかつさぼうじぎょうかんせいきねんひ)

16-1_雲仙・普賢岳直轄砂防事業完成記念碑16-2_雲仙・普賢岳直轄砂防事業完成記念碑

16-3_雲仙・普賢岳直轄砂防事業完成記念碑

平成5年から開始した災害復興事業(砂防事業)の完成を記念し、事業完了までにご協力いただいた地域の皆様に感謝の意を込め設置した碑
 

 

仁田団地(にただんち)


 

(17)雲仙普賢岳噴火災害犠牲者追悼の碑(うんぜんふげんだけふんかさいがいぎせいしゃついとうのひ)

17-1_雲仙普賢岳噴火災害犠牲者追悼の碑17-3_雲仙普賢岳噴火災害犠牲者追悼の碑1

【碑文】平成2年11月17日 198年ぶりに活動を開始した雲仙普賢岳
美しい紅葉に包まれた山頂から一条の白煙をたなびかせ、まるで一幅の絵を想わせる光景を呈しながら僅か半年後にふる里を焼き尽くすあの大災害をもたらそうとは、このとき誰が予想し得たであろうか。
翌3年6月3日に発生した想像を絶する大火砕流は消防団員をはじめ警察官、外国人火山研究者、報道関係者などなど四十三名の尊い人命を奪い、先祖伝来の山や畑、住み慣れた家屋やふる里まですべてを焼き尽くし、また、平成5年6月23日の大火砕流でも一命が奪われた。
その後、繰り返し発生した火砕流や土石流、更には降灰等により被害が拡大し、全市的にかつてない大きな損害を受け、まさに島原市の存亡を懸けた災害との斗いを余儀なくされた。
ここに市民の生命と財産を守るため身を挺し火山のメカニズム解明に命を懸け、報道の使命に情熱を燃やしながらも志半ばに無念の犠牲となられた四十四柱の御魂に哀悼の誠を捧げるとともに、とこしえに安らかなることを祈念し、併せて、島原市の復興と発展を誓い、更には、この厳然たる自然の営みと史実を末永く後世に伝えるため全市民の総意を刻し、この追悼碑を建立する。
 平成7年6月3日 島原市長

 

安中三角地帯(あんなかさんかくちたい)

  

(18)安中三角地帯復興の碑(あんなかさんかくちたいふっこうのひ)

18-1_安中三角地帯復興の碑218-3_安中三角地帯復興の碑「一陽来復」

18-2_安中三角地帯復興の碑2

【碑文】平成2年11月17日雲仙・普賢岳が198年ぶりに噴火活動を開始。その後、地獄跡火口に出現した溶岩塊が火砕流となって崩落。山体には多量の火山灰等が堆積したことから、平成3年5月15日には水無川流域で最初の土石流が発生した。
その後も降雨の度に土石流が発生し、特に、平成3年6月30日には水無川から流路を変えた大土石流が灰色の帯となって直進し、多くの家屋を一気に飲み込んだ。また、平成5年6月18日には、国道57号線の水無川橋が流失するとともに、下流域一帯の殆どの家屋が有明海まで押し流されるなど甚大な被害をもたらした。
こうした中、防災及び復興事業も順次進められたが、導流堤と水無川に挟まれた三角地帯が低地となることから、嵩上による快適な住環境の創出を目指し、地元住民による安中三角地帯嵩上推進協議会が組織された。
また、本市としても可住面積の確保並びに地域住民が安心して暮らせる強靭な防災都市建設へ向けて、安中三角地帯嵩上事業の実施を決定し、平成7年6月に着工した。
嵩上事業は、土石流の堆積土砂を利用して土地の嵩上げをしたもので、恒久的な安全性の確保はもとより砂防ダム建設用地等の堆積土砂を早期に除去できたことで防災工事の推進にも貢献した。
この事業の推進にあたっては、安中三角地帯嵩上推進協議会の皆様に多大なご理解とご協力を頂き、行政と一体となって取り組んだ大変意義深い事業であった。
ここに、安中三角地帯嵩上事業の完成を迎えるに当たりご尽力を賜った建設省、長崎県へ心から感謝するとともに官民一体となり幾多の困難を乗り越えながら復興したことを後生に伝えるため、この碑を建立する。
 安中三角地帯嵩上事業の概要
 1 面積    93ヘクタール
 2 嵩上げ高  平均6メートル
 3 土砂量   526万立法メートル(内三角地帯の堆積量200万立法メートル)
 4 事業費   90億7千万円
 5 期間    平成 7年6月 着工
         平成12年3月 竣工
 平成12年3月26日 島原市長

 

(19)安中三角地帯再生の碑(あんなかさんかくちたいさいせいのひ)

19-1_安中三角地帯再生の碑19-2_安中三角地帯再生の碑

19-3_安中三角地帯再生の碑

【碑文】平成2年11月17日 九十九島火口と地獄跡火口から2本の噴煙が立ち昇り、雲仙・普賢岳が198年ぶりに噴火活動を開始した。その後、裾野を溶岩塊が火砕流となって崩れ落ち大量の火山灰等が堆積したことにより、降雨の度に土石流が発生し、下流域の安中三角地帯に甚大な被害をもたらした。
こうした中、平成5年1月 島原市より安中三角地帯嵩上構想が発表され、この構想を実現するため、地元住民による安中三角地帯嵩上推進協議会を平成5年6月に発足し、市と一体となって地権者544名全員の同意取付に努力、平成7年6月に嵩上事業に着手した。
この事業は、関係機関のご協力はもとより、地元住民が完成までの間、一致団結して事業推進のため積極的に活動したたまものであり、今後の安中地区の住民参加によるまちづくりの基礎が築かれた大変意義深い事業であった。
ここに、安中三角地帯の再生を迎えるにあたり、ご尽力を賜った国土交通省、長崎県、また、事業主体の島原市へ心から感謝するとともに、官民一丸となり幾多の困難を乗り越え復興したことを後世に伝えるため、この碑を建立する。
 安中三角地帯の主な事業
  安中三角地帯嵩上事業     面積:93ヘクタール   平成 7年6月 工事着手
  安中土地区画整理事業     面積:32.6ヘクタール 平成10年3月 工事着手 
  島原市浜の町土地区画整理事業  面積:6.2ヘクタール  平成12年9月 工事着手
  農地災害関連区画整理事業   面積:51.4ヘクタール 平成 9年3月 工事着手
 平成14年3月23日 安中三角地帯嵩上推進協議会

 
 

われん川(われんがわ)


 

(20)われん川/われん川再生由来(われんがわ/われんがわさいせいゆらい)

20-1_われん川20-3_われん川再生由来

20-5_われん川再生由来-220-4_われん川再生由来

【碑文】幾世代この地に住む人々の命を守り、生活を支えてきた清流がここにある。
古老の伝えるところによれば寛政4年(1792年)島原大変の際「各地に多数の地割れが生じ、地下水系に変動をもたらした」とあり、この流れもその一つであろうとされる。人々は、いつとはなしに「われん川」と素朴に呼び習わし生活に、産業に不可欠の水源として大切に守り続け春夏秋冬穏やかな日々の生活はわれん川と共にあった。
われん川を産んだ普賢岳は、198年振りの眠りから目覚め5年間に及ぶ噴火を繰り返す中、平成3年(1991年)6月30日大規模な土石流がこの地を襲い、一面巨石の海と化し、われん川も僅かに水源部とその周辺の石垣や石畳の一部だけを残す惨状となった。
「われん川の再生無くして、安中の再生なし」この地の復興を決意した住民は、平成11年3月この湧水の南側に災害に負けず生き延びた木々を移植して「ふるさとの森」をこの度、われん川を「ふるさとの泉」として官民一体となり再生した。このことは正に、新世紀を目指す住民と行政との「協治」を体現したものと言えよう。
復興安中の原点としてこの清流が子々孫々に至るまで永く流れることを願ってやまない。
 平成12年11月18日 安中地区まちづくり推進協議会









このページに関する
お問い合わせは
市民部 市民安全課 災害対策班
電話:0957-63-1111(内線242)
ファックス:0957-62-3678
メール anzen@city.shimabara.lg.jp 
(ID:19160)
アドビリーダーダウンロードボタン
新しいウィンドウで表示
※資料としてPDFファイルが添付されている場合は、Adobe Acrobat(R)が必要です。
PDF書類をご覧になる場合は、Adobe Readerが必要です。正しく表示されない場合、最新バージョンをご利用ください。
【島原市役所】
 〒855-8555   長崎県島原市上の町537番地   TEL:0957-63-1111   FAX:0957-64-5525  
 開庁時間 午前8時30分~午後5時15分(土・日・祝日を除く)

お問い合わせ 個人情報の取り扱いについて 組織から探す リンク集 サイトマップ

Copyrights(C) 2015 Shimabara City Allrights reserved.