「第2代島原城主 松倉勝家(1597―1638)」
松倉勝家は、1631年(寛永8)、父・重政の死去に伴い、跡目を継いで島原藩主となりました。勝家は長門守(ながとのかみ)を名乗っています。
勝家が藩主であった1637年(寛永14)、島原・天草一揆(島原の乱)が起こりました。これについては、当時の藩主が「松倉氏である」と語られることが多いためか、一揆の原因を父・重政の悪政に求める誤解した見方が、いまだに多く見られます。
重政がキリシタンを厳しく取り締まったことは確かですが、実際は子・勝家の治政のまずさによるところが大きいようです。
一揆の顛末は後世になって数多く記されますが、その中では勝家が検地を行い、不当に高い税率で年貢を取り立てたことを記すものが少なくありません。こうした勝家の「税政」が、領民を疲弊させ、不満を募らせました。
また、勝家が藩主としての資質を備えていなかった点も指摘されています。熊本藩主・細川家に伝わる資料によると、多くの家臣が勝家の元を離れて島原から抜け出したとされています。
さらに、事の虚実ははっきりしませんが、勝家の所行についての不穏な噂話が流れ、藩主としての身の上が案じられている記述も見られます。当時、他藩からも、勝家が不安視されていたことがうかがえます。
有馬での代官殺害から始まった領民の蜂起は、天草での蜂起とも連帯し、一藩主だけでは制圧できない大規模な一揆となりました。一揆の制圧には、西国の諸大名が動員され、蜂起した領民のほぼ全員が殺害されました。
一揆が鎮圧された後、勝家は所領を没収され、領内で一揆が引き起こされた責任を問われ、大名としては異例の、斬首の刑に処せられました。
(社会教育課学芸員 吉田 信也(よしだ しんや))
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【写真】『原城攻図』肥前島原松平文庫蔵 |