「第3代島原城主 高力忠房(1584ー1655)」
高力氏は、室町期に三河国額田郡(みかわのくにぬかたぐん)高力郷(こうりきごう)(現・愛知県額田郡幸田町)を本拠とし、代々松平本家および徳川家に仕えた家柄です。
忠房は高力正長(まさなが)の長男として、1584年(天正12)に遠江国(とおとうみのくに)浜松(はままつ)(現・静岡県浜松市)に生まれました。通常摂津守(せっつのかみ)を名乗りました。
1599年(慶長4)、忠房の祖父で武蔵国岩槻(むさしのくにいわつき)藩主・高力清長(きよなが)に先立って、父・正長が亡くなり、清長もまた隠居します。これにより、忠房は高力家の家督を継ぎ、岩槻藩(現・埼玉県さいたま市)2万石の藩主となります。その後1619年(元和5)、3万石に加増され、遠江国浜松藩主となりました。
1639年(寛永16)、島原・天草一揆(島原の乱)の責任を問われて改易となった松倉勝家の後を受けて、4万石への加増をもって島原藩主となります。
島原に入った忠房は、一揆によって荒廃した領内農村の復興に尽力しました。他領からの移住民を受け入れ、領内寺社の創設や再興を行いました。
また、一揆をきっかけに整備されていく幕府の対外政策において島原藩は重要な役割を担うこととなり、以後の藩主にも引き継がれていきます。
1655年(明暦元)、忠房は参勤先の江戸から島原へ戻る途中、京都で亡くなります。
萩原一丁目の快光院(かいこういん)には高力忠房と祖父・清長の供養墓碑2基が残されており、市の史跡に指定されています。この墓碑はそれぞれの墓所である京都府向日(むこう)市の永正寺(えいしょうじ)(忠房)とさいたま市岩槻区の浄安寺(じょうあんじ)(清長)から1968年(昭和43)に移されたものです。
(社会教育課学芸員 吉田 信也(よしだ しんや))
|
【写真】高力忠房・清長の供養墓碑 |