武家屋敷街水路 |
島原は古くから「水の都」と呼ばれ、市内のいたるところから、水が湧き出しています。
本市は、昭和56年(1981)、国土庁から「水緑都市モデル地区」に指定されています。
続いて、水を生かしたまちづくりに優れた成果をあげていることが評価され、平成7年(1995)に同じく国土庁から「水の郷」に指定されています。
また、昭和60年(1985)には、環境庁から「島原湧水群」が「日本名水百選」に選定されました。
選定の理由は、「市内各所に、湧水がみられ、それは、生活用水に利用され、また、古くからの水路等が残されて、水辺環境の整備が、行われている」と述べられています。
まず、武家屋敷水路の水は、杉谷の水源(熊野神社)まで、約2キロメートルもあり、飲料水として、水奉行に見守られながら、大事に使われてきました。その時代の「御触類集」文化2年(1805)によると、「鉄砲町用水にて不浄成もの洗物致侯……」とあり、鍋、釜を洗うと没収、水を汚すと罰金等と記されています。川筋の清潔保持に努めていたことがわかります。毎月1日・15日は、掃除をすることになっていました。これは、大正年間まで続きました。
北の鉄砲町の水路に対して、南の農民のための水路として木場水道があります。これは島原大変後、中木場村の水源が枯れて村人が困ったので、庄屋と村人が水路を引いたものです。しかし、平成の噴火災害のために水源と水路が失われてしまいました。
ここに古い記述があります。「寛政4年地変記」に「前山の北方、4月朔日埋没したる地に清水湧出し、また、上の原の井戸は変後、にわかに水あふれ、その近方は、すべて数ヵ所より清水湧出し、白土池となる。島原町中にも万町、堀町、桜町、新町など各地湧水あり、上の原ならびに万町の水はこんこんとして絶えず、何れも数万人の用水に供するに足れり。」と。
各所の湧水は、約200年前の普賢岳の火山活動による眉山の大崩壊とともに、このときの大地変で地割れが生じ、湧き出したといわれています。市民の生活用水として、多大の恩恵を受けるとともに、「水の都」を支える貴重な観光資源となり、その声価を高めています。