島原城の築城のとき、外郭の西に接して扶持取70石以下の武士たちの住宅団地が建設されました。戦いのときには鉄砲を主力とする徒士(歩兵)部隊の住居であったので、鉄砲町とも呼ばれています。街路の中央の水路は豊かな湧水を引いたもので、生活用水として大切に守られてきました。
島原城が竣工した1624(寛永元)年ごろ、藩主松倉氏は知行四万石で、鉄砲町も下の丁・中の丁・古丁の三筋だけでしたが、1669(寛文9)年松平忠房が知行七万石で入封してから、新たに上新丁・下新丁・新建の三筋が作られ、さらに幕末に江戸詰めの藩士が帰国することになって、最後に江戸丁が作られました。
徒士たちの平常の勤務は、各役所の物書(書記)、各村々の代官、検察や警察、城門の警備などでしたが、1868(明治元)年の「戊辰戦争」には260人ほどの徒士たちが官軍に属して奥州へ出陣、4人が戦死するという戦歴も残しています。
一屋敷は三畝(90坪・約300平方メートル)ずつに区切られ、住居は25坪ほどの藁葺き、屋敷内には藩命で梅・柿・蜜柑類・枇杷などの果樹を植えさせ、四季の果物は自給できるようになっていました。また屋根の葺き替えに使う真竹の藪を持った家もありました。
南北に通じる各丁の道路の中央には水路を設け、清水を流して生活用水としていましたが、この当時、水源は主に2キロほど北にある杉山権現熊野神社の豊かな湧き水を引いたものでした。藩主松平氏は三河国の深溝(愛知県幸田町)の出身で、家臣団も多くが三河者であったため、独特な「鉄砲町言葉」が使われていましたが、現在ではほとんど聞かれなくなってしまいました。
上新丁には後に元老院議官となった丸山作楽が、文久年代(1861頃)に青少年に国学を講じ、国事を論じた私塾「神習処」の跡が残っています。
ギャラリー
※本記事は、島原観光情報発信サイト「島原旅たより」(平成25~27年)の内容を基に作成しました。