「松平家忠と『家忠日記』 歴史を継承するということ」
松平家忠(いえただ)(1555~1600年)は、松平島原藩の初代・忠房(ただふさ)の祖父です。三河国深溝(ふこうず)(現愛知県額田郡幸田町深溝)を本領とし、徳川家康の家臣として、織豊(しょくほう)期(織田信長・豊臣秀吉の時代)の数々の戦に参陣しました。1600年(慶長5年)、伏見城(現京都市伏見区)の城番であった家忠は、関ヶ原の戦いの直前に西軍の猛攻を受け、討死します。
家忠は日記を記しており、現在駒澤大学にその原本が伝えられています。織豊期の武士の日記がまとまって現存しているのは、薩摩の『上井覚兼(うわいかっけん)日記』と、この『家忠日記』のみで、当時の武家社会の一端を映し出す貴重な資料です。
この日記には、日本史上でも注目されるような記述が数多く見られます。例えば、日記の中で、主君・家康に対する家忠の呼び方が「家康」から「家康様」に変化しており、家康の地位が向上した事がうかがえます。
孫の忠房の時に『家忠日記』の整理が行われます。その際、『家忠日記』の記事以降の出来事を書き加える形で『家忠日記増補追加』が編述され、忠房自身も跋文(ばつぶん:意味は、後書き)を添えています。
原本が納められた桐箱の上蓋(うわぶた)には、家忠から8代後の島原藩主・松平忠馮(ただより)の署名があります。『家忠日記』は、歴史を後世に伝えようと志す、忠房や忠馮といった子孫の思いと、その偉大さを改めて感じさせてくれます。
(松平文庫学芸員 吉田 信也(よしだしんや))
(『広報しまばら』平成25年8月号「ふるさと再発見」)
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【写真】『家忠日記増補追加』(肥前島原松平文庫蔵) |