「初代島原藩主 松倉重政(生年不詳~1630年)」
松倉重政は、戦国大名で大和(やまと)郡山(こおりやま)城主・筒井(つつい)順慶(じゅんけい)の重臣・松倉重信の子として生まれました。通常豊後守(ぶんごのかみ)を名乗っています。
1608年(慶長13)、筒井氏は改易となりますが、重政は1600年(慶長5)の関ヶ原合戦の戦功により、大和国(やまとのくに)二見(ふたみ)五条(ごじょう)(現・奈良県五條市)1万石の大名に取り立てられました。
1615年(慶長20)の大坂夏の陣の戦功により4万石加増となり、肥前国高来郡日野江(ひのえ)(現・南島原市北有馬町)に移されますが、程なくして島原城の新築にかかり、居城とします。
重政が島原に移った年や島原城の築城年代については、多くの史料が年代を明記しないため、諸説あります。その中で1682年(天和2)に記したとされる『肥前国(ひぜんのくに)有馬古老(ころう)物語(ものがたり)』という史料は、「元和2年に日野江に入った後島原浜の城に移り、同4年に島原に本城の地を取り立て(採用し)、7年で成就した」という旨で、具体的な年数を記しています。
重政の治世は、島原が島原半島の政治・経済・文化の中心地として発展していく礎を築いたと評価される一方、領内統治のためのキリシタン弾圧と過重な年貢徴収によって、島原・天草一揆(島原の乱)が引き起こされたと、今なお語り継がれています。
また、重政は南方への遠征を画策し、それに先立って1630年(寛永7)に、ルソン島(フィリピン)に使節を派遣しています。
ところがその矢先、小浜(現・雲仙市小浜町)にて死去。遠征は実現せず、ルソン島遠征の動機は謎のままとなりました。
中堀町(なかほりまち)の江東寺(こうとうじ)には重政の墓地があります(市指定史跡)。島原大変で流失した後に発見された墓石と1828年(文政11)に再建された墓石が残されています。
(社会教育課学芸員 吉田 信也(よしだ しんや))
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【写真】松倉重政の墓 |