「第4代島原城主 高力高長(たかなが)公(1605―1677)」
高力高長公は「隆長」と表記されることもあり、通常左近太夫(さこんだゆう)を名乗りました。1655年(明暦元)父・忠房公の死去により島原藩主となります。
高長公は書籍、とくに漢籍(『論語(ろんご)』などの中国の書物)の収集家でした。幕府のお抱え儒学者(じゅがくしゃ)であった林家の日記(『国史館日録(こくしかんにちろく)』)には、全国でも指折りの、書物を収集する大名として、漢書は高長公、和書(『源氏物語』などの日本の古典)は、当時の丹波国福知山(たんばのくにふくちやま)藩主・松平忠房公らが挙げられています。残念ながら高長公の蔵書は島原に伝わっていませんが、ともに島原にゆかりのある大名が国内有数の蔵書家であったことは大変興味深く、忠房公の蔵書が肥前島原松平文庫として伝わっているだけに大変惜しまれます。
しかし、藩政については必ずしもうまくいったとはいえませんでした。
高長公を強く諫めた家老・志賀玄蕃(しがげんば)(甚三郎(じんざぶろう))を成敗するに至ったことが伝わっており、家臣団の統率がうまくとれなかったことをうかがわせます。
なお、玄蕃が没した地は「甚三郎山」(市指定史跡)として伝えられ、今も数基の祠が祀られています。以前は奉納相撲が催されていました。
そして、1667年(寛文7)、幕府が巡見使を島原に派遣した際、島原の領民が過重な年貢をかけられていることを巡見使に訴え出ました。幕府は再度調査した後、同年二月に高長公を改易し、陸奥国仙台藩(現・宮城県仙台市)へ配流しました。高長公は1677年(延宝5)、同地で没しました。
同時に嫡子・常長(つねなが)は出羽国庄内(でわのくにしょうない)藩(現・秋田県庄内市)に、二男・秀長(ひでなが)は信濃国松代(しなののくにまつしろ)藩(現・長野県松代市)にそれぞれ預けられますが、後年2人は赦され、高力家は旗本として存続していきます。
(社会教育課学芸員 吉田 信也(よしだ しんや))
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【写真】甚三郎山 |