「第6代島原城主 松平忠雄(ただお・ただかつ)公(1673-1736)」
松平忠雄公は、1673年(延宝元)に生まれました。忠雄公は、のちに忠房公の養子になりますが、実の父は、深溝松平家(ふこうずまつだいらけ)の分家筋にあたる旗本・松平伊行(これゆき)です。
忠房公の長男・好房(よしふさ)は、忠房公が島原に入る直前(1669・寛文9)に亡くなります。好房没後、跡継ぎは当初、次男の忠倫(ただみち・ただとも)と目されていましたが、忠房公は、1686年(貞享3)に養子にしていた忠雄公を、1691(元禄4)に跡継ぎとし、忠倫を隠居させました(廃嫡(はいちゃく))。
1698年(元禄11)、忠雄公は、忠房公より家督を譲られ、藩主となります。
1706年(宝永3)から翌年にかけて、忠雄公は、領内の検地を実施します。この検地は、長く島原藩政の基本となると共に、これを元に作成された、島原半島33箇村の石高(こくだか)や、人口、産物や旧跡などの詳細な記録は、『島原大概様子書(しまばらたいがいようすがき)』(肥前島原松平文庫所蔵)として後年に伝わり、江戸時代の村落の様子がわかる資料として多くの研究者に引用されています。
忠雄公の島原藩主としての在位は、歴代の中で最も長い37年に及びました。その間、藩の財政に影響を及ぼすような凶作や、跡を継ぐ男子や養子までも相次いで先立たれるという、厳しい現実にも直面しました。
忠雄公は、1735年(享保20)、家督を養子の忠長(ただなが)(のちの忠俔(ただみ)公)に譲って隠居し、翌年、江戸で亡くなりました。忠房公と同様に、三河国深溝(みかわのくにふこうず)(現・愛知県額田郡幸田町)に埋葬されましたが、藩主としては唯一、島原にも墓碑が建立されています。
(社会教育課学芸員 吉田 信也(よしだ しんや))
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【写真】島原にある忠雄公の墓碑 |