「第7代島原城主 松平忠俔(ただみ)公(1711-1738)」
松平忠俔公は、1711年(正徳元)、島原藩大老(家老)・松平次章(つぐあき)の四男として島原で生まれました。初めは忠長(ただなが)と名乗っていました。
1735年(享保20)、忠雄公の養子となり、その年の終わりに家督を継ぎます。
忠俔公の在位は、わずか3年ですが、神仏への信心が大変深い藩主として後世に語り継がれています。『深溝世紀(ふこうずせいき)』(肥前島原松平文庫所蔵)には、雲仙に普賢堂(ふげんどう)や鳥居を建立したり、菩提寺である本光寺(ほんこうじ)に梵鐘を納めたことが記録されています。このうち鳥居については、平成の噴火災害による土石流の被害を受け、現在、南千本木(みなみせんぼんぎ)に柱の一部が遺されています。
1737年(元文2)には、城下の寺社に対して本堂などの修復料を一斉に与えました。
また、忠俔公は、万町(よろずまち)の乙名(おとな)・讃岐屋市兵衛(さぬきやいちべえ)に命じ、京の有名な仏師30人に一体ずつ神像を作らせ、護国寺(ごこくじ)に納めました。あわせて、島原藩の石高にちなみ、7万巻の経典も納められています。
以後、1781年(天明元)の護国寺の火災や、1792年(寛政4)の「島原大変」の難をまぬがれ、「護国寺の三十番神像」として、今なお、人々に厚く信仰されています。
1738年(元文3)、忠俔公は28才の若さで亡くなりました。島原で亡くなった忠俔公の埋葬先について、島原に葬ることも取り沙汰されましたが、最終的には、深溝松平家(ふこうずまつだいらけ)の歴代が眠る三河国深溝(みかわのくにふこうず)(今の愛知県額田郡幸田町)に埋葬されました。
(社会教育課学芸員 吉田 信也(よしだ しんや))
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【写真】島原護国寺三十番神忠俔公の像 |