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城下めぐりコース(徒歩4時間)

 

島原ならではの風情あふれる城下町のたたずまい 歴史散策コース (徒歩4時間)

城下めぐりコース

 

(1)島原城

島原城
島原城(森岳城)のあるところは、数千年前の眉山の崩壊でできた流山の一つで、昔は四壁山または森岳と呼ばれ、木々のおいしげった山でした。
天正12年(1584年)沖田畷の戦いの時には、有馬・島津連合軍がここに本陣を置き、龍造寺軍を撃破しました。 元和2年(1616年)6月、松倉重政は大和の国(奈良県)から島原に国を移されると間もなく、当時森岳と呼ばれていた高地を城のかたちに切り取って石垣を積み、堀をめぐらせて7~8年の歳月を費やして島原城を築城しました。
しかし、七万石の大名の城としてはふつりあいに大きいと言われるこの島原城の築城と城下町の建設には莫大な出費がかさみ、住民に重税を課し、その後のキリシタン弾圧と相まって「島原の乱(1637年)」の原因となりました。
島原の乱の猛攻にも耐え、寛政4年(1792年)の島原大変の地震と大津波にも耐えましたが、明治3年(1870年)に城の一切の普請が停止され、次々に入札払になり、明治9年(1876年)には天守閣も解体されてしまいました。
昭和32年、全国初の城跡公園に指定され、昭和35年(1960年)西の櫓、昭和39年・天守閣、昭和48年・巽櫓、昭和55年・丑寅の櫓が再建されました。
現在の天守閣には、キリシタン史料並びに藩政時代の郷土史料、民俗史料等が展示されています。 
 

(2)時鐘楼(じしょうろう)

時鐘楼
延宝3年(1675年)9月、初代島原藩主・松平忠房が「人々に時刻を知らせ、守らせることは政治の中でも大切なことである。」と、鐘楼を建立しました。
巨鐘は豊後国中島の藤原正次に鋳造させたもので、純金を鋳こんだ高さ1.3メートル、代銀401匁の青銅製の鐘が吊り下げられ、これを毎時間ごとに撞き鳴らして時刻を知らせていました。 ひときわ美しく澄んだ音色は遥か遠くまで響き渡り、西風の日は熊本県沿岸まで28キロの海をわたって聞こえたと伝えられています。堂の下は空洞で、音を共鳴させる特殊な構造になっていたそうです。
明治維新後も、島原の人たちに「お上の鐘」として親しまれ続け、飯塚家がここに住み着き3代にわたって鐘つきをしました。しかし、生活に溶け込んでいた時鐘も太平洋戦争の金属供出命令によって昭和19年(1944年)に運び去られ、270年間もの長い歴史の余韻を残したままその行方はさだかではありません。

鐘楼だけは昭和48年まで残っていましたが破損もひどかったので、昔をしのぶ人たちの寄付によって復元されました。現在の鐘は、直径69センチメートル、高さ132センチメートル、重さ375キログラムほどあります。銘文や模様は北村西望氏の労作によるものです。
 
 

(3)武家屋敷

武家屋敷水路
武家屋敷水路
島原城築城の時、外郭の西に接して扶持取り70石以下の武士たちの徒士屋敷が建設され、690戸ありました。上士屋敷は城内に置かれ、徒士屋敷の広さは90坪、家は25坪、すべて藁葺であり、麦藁は農民から上納させていました。 
築城とともに形成された鉄砲町の名は、鉄砲組(徒士部隊)の住居地帯であったことと、造成当時、隣家との間に塀がなく、まるで鉄砲の筒の中を覗くように武家屋敷街が見通せたので、その名がつけられたと言われています。 
島原城が竣工した寛永元年(1624年)頃、鉄砲町も下の丁・中の丁・古丁の三筋だけでしたが、寛文9年(1669年)松平忠房が入封してから、新たに上新丁・下新丁・新建の三筋が作られ、さらに幕末に江戸詰めの藩士が帰国することになって、最後に江戸丁が作られました。 
安永5年(1775年)、松平藩主が再び島原へ移ったとき、下級武士の屋敷であっても境界がないのはよくないと、各屋敷に石垣が築かれ、窮民の救済事業で石が集められたので、各屋敷とも石垣の種類や築き方が違っているようです。 
屋敷街の中央に流れる清水は、飲料水や生活用水に使われており、むかしはチフスや赤痢、コレラの悪疫が流行すると消毒薬もなかったので、藩では伝染に留意し、川奉行という名の看板人を置きました。
屋敷内には、藩令による自給自足の奨励から梅、柑橘、橙、柚、桃、枇杷などを植え、季節の果物を買わなくてもいいようにし、竹も自給自足だったため、必要なだけの竹林が屋敷内にあったところもあるそうです。 脇を流れる武家屋敷水路も涼やかです。
 
山本邸
山本邸
鳥田邸
鳥田邸
篠塚邸
篠塚邸

砲術師範の屋敷

ここに住んでいた山本家の初代佐五左衛門は、松平藩主の三河(愛知県)時代からの家臣で、藩主に随行して島原へやってきました。
代々砲術師範として藩の重職を歴任し、幕末まで前後13代の城主に仕えました。
17石2人扶持で、下級武士には珍しいといわれるこの門構えは、藩主から特別に許されたものだそうです。当時のままの武家屋敷として今も残っており、貴重な文化財となっています。

材木奉行・宗門方加役・船津往来番などの重職のお屋敷

鳥田家は松平藩主の草創以来の古い家柄で、藩主に仕えて三河国吉田、丹波国福知山と転じ、寛文9年(1669年)に島原に入りました。 
歴代地方代官・郡方物書などを勤めましたが、幕末には材木奉行・宗門方加役・船津往来番などの重職についていました。鳥田邸は現在も保存され、屋敷の一部が公開されています。

郡方祐筆(書記)のお屋敷

この屋敷に住んでいた篠塚順右衛門は、松平藩主の三河(愛知県)時代からの家臣で、藩主に随行して島原へやってきました。
明治時代まで11代続き、主に郡方祐筆(書記)や代官などを務めていたそうです。屋敷は現在も保存され、全面公開されています。


 

(4)松平文庫(島原図書館)

松平文庫

肥前島原松平文庫は、現在島原図書館内の2階にあり、旧島原藩主松平家が代々収集・所蔵していた古典籍類や郷土ゆかりの古文書資料を保管しています。
島原の乱後、寛文9年(1669年)徳川幕府の命によって福知山(京都)から島原に移封されたのが、譜代大名・松平忠房です。
忠房は文武両道にすぐれていて、幕府の学者とも親交を結び、とても教養深い人でした。
移封後まもなく領内の検地を行い、税制の整理や農村の振興、神社寺院の整備などに着手し、藩政の安定に努めました。
この忠房が主に福知山時代に集めた文学・歴史・兵法などの貴重本には「尚舎源忠房」「文庫」の蔵書印が押印されており、絵図類とともに肥前島原松平文庫の柱となっています。
文庫の中には、寛政5年(1793年)に設立された藩校・稽古館の教科書として活用された本も含まれており、数多くの人材輩出に役立ちました。
廃藩置県後は松平家の管理事務所に保管されますが、旧制島原中学校の教科書として一部利用されていたとも伝えられています。
昭和23年(1948年)、島原公民館図書部に移管された後、整理・分類がなされ、昭和36年(1961年)『肥前島原松平文庫目録』が発行されました。
これらの古典籍類は昭和39年(1964年)4月10日に島原城天守閣復元を記念して、松平家から島原市に寄贈されました。1975年(昭和50年)に島原市有形文化財に指定され、2013年(平成25年)には長崎県の有形文化財 に指定されています。
また、藩政の記録「旧島原藩日記」(市指定有形文化財)や旧藩士宅などから御寄贈いただいた古文書資料も収集・保管されており、 肥前島原松平文庫は郷土の歴史を今に伝える貴重な施設としても利用されています。

閲覧には予約が必要です。 予約先、閲覧規定については下記ホームページをご参照ください。

 

(5)森岳商店街

森岳商店街
古い町屋が続くレトロな雰囲気の商店街です。
道祖神をモチーフにした街路灯や案内板を見ながら楽しく散策できます。
 
 <城下めぐりコース各スポット>
 










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