ここはかつて藩校・稽古館が開かれていた場所です。
初代島原藩主・松平忠房は「文武両道こそは藩の基盤である」と、神学や国学などの講義を良く聴き、家臣へも聴講を勧めていました。また、色々な書籍を買い求めて「尚舎忠房文庫」を作ったそうで、それが「肥前島原 松平文庫」となって伝わり、現在島原図書館に保管されています。
こうした学問好きの藩主の教えが代々伝えられ、寛政4年(1792年)の島原大変で地震と大津波の大惨禍を受けた直後にもかかわらず、寛政5年(1793年)9月に藩校が開校されました。
開校にあたり、藩主が「自今、士卒族の男子齢八歳より入校、学に就くべし。業に奉仕する者は勤務の余暇に登校し、会読、講義を聴講すべし」と布令を出して、学則や仕組みも決まりました。
学館の講義は4と9のつく日に、月6回午後3時から行われました。学科は徳行、経学、史学、国学、律学、兵学、医学、天文学が開かれ、特に経学と史学の学習と兵学の技能が重視されたそうです。
次藩主・八代忠候は、天保5年(1834年)さらに敷地を560坪(1848平方メートル)、建物147坪(485平方メートル)に拡張しました。そのため学生も増加していき、江戸藩邸から川北温山という大学者を招いたり、孔子像を祭ったりと次第に発展していきました。
明治維新で廃校になりましたが、一時本光寺へ場所を移し、私塾として明治11年(1877年)まで続けられ、その校風は島原中学校へと引き継がれました。 残念ながら数年前に、唯一残されていた石垣も取り壊されてしまいましが、歴史を辿れば島原の学校の根元はここにあるようです。