「島原城下町の形成」
島原城下町は、鉄砲町を含む藩士の居住地だけではなく、島原城を中心に、町人の居住地、寺社、湊など、さまざまな機能を持つ空間が集まって構成されています。
島原城下町は、大手川を挟み、対照的な構成を見せています。現在の地図を見てみても、大手川より南側は緩やかに曲折する街路、北側は整然と通された街路に沿って町が展開していることがわかります。
この違いは、町の成立時期によるものです。大手川から南側は、中世の島原氏が本拠とした浜の城近くに展開した町場を基盤としています。一方、大手川から北側は、松倉氏が築いた近世城郭(島原城)の周りに新たな移住者によって町建てが成されました。
「島原」という地名は、平安末期に書かれた『宇佐大鏡(うさおおかがみ)』に豊前宇佐宮領(ぶぜんうさぐうりょう)として初めて登場します。古代から現在まで、私たちのふるさと島原市は、長い年月をかけて今の姿となりました。その町並みには、先人の営み、島原の歴史が確かに刻まれています。
○参考文献:「島原市鉄砲町伝統的建造物群保存対策調査報告書」島原市 平成21年3月
(『広報しまばら』平成25年2月号「ふるさと再発見」)
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【写真】島原大変前城下町図 |