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島原市寺町の日蓮宗護国寺に三十番神をお祭りする神堂があります。ここは寛政4年(1792年)の時にも、奇跡的に流れ残った貴重な御堂です。
三十番神とは、ひと月30日の間をそれぞれ分担して守護して下さる、天照皇大神や八幡大菩薩など30体の法華経守護神の事で、ここ護国寺には朔日・熱田大明神から晦日・吉備大明神までの番神30体の着色木像が安置されています。
この三十番神様には次のような逸話が残されています。
松平家三代忠俔は島原藩主に任命された翌年、元文1年(1736年)原因不明の大病にかかり、一時は危篤状態にもなりましたが翌日回復しました。
そして、心配して集まった家臣たちに昨夜見た夢の話をしました。「いつの間にか立派な御殿の前に来ていて、そこには衣冠を正した30人がずらりと並んでいた。御殿に入ろうとすると、お前は駄目だ、ここは市兵衛のような誠実で信仰厚い人のくるような所だと追い返された。」と。
そこで、さっそくその「市兵衛」という人物を手分けして探させると、熱心な日蓮宗の信者であり、人々の信用も厚い讃岐屋市兵衛という男が見つかりました。
市兵衛を城に呼び出し尋ねてみれば、祖父と父の代からの遺言である三十番神献納を願っていたそうで、それならばと、忠俔は市兵衛を藩士待遇として木村一郎左衛門と名乗らせ、京都に派遣し、名のある刀匠30人に1人1体ずつ番神像を彫らせました。
その費用は全額藩の負担で、同時に三十番神成就を共に祈り合わせて七万巻の法華経文を奉納しました。3年後、番神像は見事に完成し、ここ護国寺に納められました。
しかし、その2年後施主の忠俔は28歳で死亡しました。その後は、天明1、8両年の大火や寛政4年の島原大変にも難を免れましたが、明治2年(1877年)の神仏分離令で寺に置けなくなり、島原城天守閣大広間に移されました。
島原城を取り壊すときには油屋という商人へ払い下げられ、出開帳といって西日本一帯で見世物にされていました。
それを寺と檀家とで相談をして買い戻し、明治15年(1882年)にやっと元の地へ安置することができました。
護国寺はもともと、島原の乱後の慶安4年(1651年)、高力忠房が本妙寺の日遥上人を熊本から招いて開かれたものです。日遥上人は朝鮮李王家の血を引く人物で、2歳の時に加藤清正に連れて来られて熊本で育ち、成長して3代目住職となり、そしてさらに頼まれて島原に渡ってきたそうです。
ここ護国寺・三十番神は、こうして幾つもの変遷を経て今に伝えられています。