島原市の概要
 島原半島は、すでに洪積世の人間の歴史が刻まれたといわれ、多くの古代遺跡の中には、日本における先駆的な地位と役割を果たしたと思われることも少なくありません。 
城下町としての島原の歴史は、有馬氏などの群雄割拠の時代を経て、徳川時代の元和4年(1618)から7年の歳月をかけ松倉重政が島原城を築城したときに始まります。 
 以来、松平7万石の城下町として島原半島の政治、経済、教育文化の中枢的地位と役割を果たしてきました。 
その間、寛永14年(1637)には、松倉勝家の苛政とキリシタン弾圧に対する「島原の乱」が起こり、また寛政4年(1792)には、国内三大難山と言われる眉山が大崩壊し、山崩れと津波によって島原領内でも多数の住民が死亡するという大災害に見舞われました。この2つの大きな動乱と地変を経て明治維新を迎え、明治11年(1878)、旧城下町は島原村、島原町、湊町となり、その後、大正13年(1924)に島原町となりました。 
昭和15年(1940)4月長崎県下で3番目に市制を施行し、昭和30年(1955)には三会村と合併し、また、平成18年(2006)1月1日に有明町と合併いたしました。 
 
市章
  市制施行を記念して、懸賞募集により昭和15年4月1日に制定しました。 
「島原市は山を負い、海に臨む風光明媚の地にして、4個のマを配して“シマ”を現し、円満な市政と市民協和を象徴す」と表現しています。
 
市民憲章
美しい自然とゆたかな風土にはぐくまれたこのしあわせを大切にさらに住みよい郷土をつくるため
私たち島原市民は
 一、自然を愛し きれいな街づくりにつとめましょう。
 一、お互いに助け合い 明るい社会を築きましょう。
 一、教養ゆたかに 文化を高めましょう。
 一、きまりを守り よい風習を育てましょう。
 一、健康で働き 楽しい家庭をつくりましょう。
市の花
ウメ(梅)
 
地勢
  本市は、長崎県の南東部にある島原半島の東端に位置しており、その面積は82.96平方キロメートルで、島原半島の約18%を占めています。 
中央部の眉山(標高818.7m)を中心として東側の有明海へ伸びる傾斜地となっています。眉山の東斜面には1792年の大規模崩壊跡があり、崩壊下部より九十九島周辺の海域にかけては多数の流山が分布しています。 
また、眉山の背後には、平成2年に198年ぶりに噴火した雲仙・普賢岳があり、その溶岩ドームは平成8年に「平成新山」と命名されました。 
| 東西南北端点 | 市役所の位置 | 
| 東端  北緯32°46′18″ 東経130°23′13″ 西端  北緯32°46′21″ 東経130°16′23″
 南端  北緯32°44′14″ 東経130°22′25″
 北端  北緯32°52′01″ 東経130°19′13″
 | 北緯 32°47′17″ 東経130°22′14″
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■面積
 82.96平方キロメートル(令和元年10月1日現在)