稲葉信通(いなば のぶみち)が留守番した島原城
1668年(寛文8)2月、島原藩主 高力高長(こうりき たかなが)が改易(かいえき)(領地を没収する刑罰)に処せられます。同年4月、島原城の受取を命ぜられた、豊前中津藩主 小笠原長勝(おがさわら ながかつ)(本丸担当) と肥前平戸藩主 松浦鎮信(まつら しげのぶ)(二の丸担当) に城が引き渡されます。
そして翌月21日、在番を命ぜられた豊後臼杵(ぶんごうすき)藩主 稲葉信通(いなば のぶみち)に引き継がれました。
後年に編纂されたものですが、歴代臼杵藩主の事績が記録された『稲葉家譜』から信通が島原城の留守番をしていた頃の様子を垣間見ることができます。
5月7日に臼杵を出立した信通は12日は深江村に入り、その庄屋宅が島原城に入るまでの本陣となりました。入城の際には1600人余りの家臣を率いています。
留守の間についての記述は決して多くありませんが、島原城の修復を行ったことや、原城の視察、温泉山(うんぜん)(雲仙)に登り、絵師に山境を描かせ、後日清書したものを温泉山(うんぜんやま)の一乗院に贈ったことなど、これまで島原ではあまり知られていなかったことが記載されています。
そして、12月に日向飫肥(ひゅうがおび)藩主 伊東 祐実(いとうすけざね)と交替し、信通の島原城在番の任務は解かれます。
大分県臼杵市では稲葉家文書の本格的な調査・目録化が行われています。島原城や島原半島の絵図もあり、藩主不在の空白期のことについて、さら解明につながるものと思われます。
(松平文庫学芸員 吉田信也(よしだ しんや))
(『広報しまばら』平成27年7月号「ふるさと再発見」)
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『稲葉家譜』影写本(えいしゃぼん)の写真(東京大学史料編纂所HPより) |