「島原大変」と島原城
○瓦の落下・7カ所
○石垣崩落(いしがきほうらく)・5カ所
(鐘撞所(かねつきどころ)、土手留(どてどめ)を含む)
○塀の決潰(けっかい)・7カ所
○米蔵破損(こめぐらはそん)・2棟
○外曲輪平櫓破損(そとぐるわひらやぐらはそん)・9カ所
これは、1792年(寛政4)の、いわゆる「島原大変」における、島原城の施設に関わる個所の被災状況です。現存の資料が被災した個所をすべて記述しているとすれば、1万人近くの死者数を記録している災害の中にあって、比較的軽微な被災状況ではないでしょうか。
城内の侍屋敷でも68カ所で塀が潰れているものの、母屋の被害は記録されていません。
また、古絵図には城内および鉄砲町にかかった、3カ所の地割れが記されているものもあります。
城郭がこれだけの災害に耐えうる強固なものであったためか、城内は避難先に設定されていました。
3月1日の大地震の直後、普賢岳の噴火に備え、溶岩流の到達地点に応じた段階別の警戒避難指令が、島原藩から出されました。指令の中で、溶岩流が鉄砲町に到達するような時は、そこに住む者は城内の空き家に移るようにと指示されています。
4月1日に城下が高波に見舞われるものの、噴火についての想定は現実のものとはなりませんでした。しかし、強固な城郭でありながら、藩主が守山村(現在の雲仙市吾妻町)への避難を選択した史実は、同地で藩主自身が死を迎える結果となったこともあって、悔やまれます。
(松平文庫学芸員 吉田 信也)
(『広報しまばら』平成27年5月号「ふるさと再発見」)
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『島原大変大地図』(松平文庫蔵)に描かれた地割れ |