明治維新を迎えた島原城
1869年(明治2)、島原藩主松平忠和(まつだいら ただかつ)は、これまで治めてきた土地と人民を朝廷に返上し(版籍奉還)、島原藩知事に任命されます。
「明治維新」の名のごとく、この時期さまざまな改革が推し進められていく中で、藩主の公私ははっきりと区別されていきます。
政務はこれまでどおり三ノ丸御殿で行われますが、従来三ノ丸御殿は藩主の住居を兼ねていました。
ところがこの時、御殿の後庭の一角に館舎が建てられ、12月、忠和はそこへ移り住 みます。
その館舎は「甲第(こうだい)」と 名付けられ、政庁とは明確な境界によって分けられました。
1871年(明治4)7月、忠和は知事の職を解かれ、藩が廃されて県が置かれます(廃藩置県)。
職を解かれた忠和とその家族は、翌月以降東京に移り住みます。
廃藩置県によって、旧島原藩領にはそのまま島原県が置かれましたが、 11 月には島原半島の領域が長崎県に編入されます。
そして、三ノ丸御殿は島原県庁舎としても用いられたようですが、島原県がなくなった後は利用されないまま、1873年 (明治6)に 85円で落札されます。
そのことを記した資料には、島原県庁舎の様子が、「年数を経た古家のため腐れ朽ち、それでいて大きな建物のため、崩そうにも手数が掛り容易でない」 と記されています。
この状態は、そのほかの天守や櫓も同様で、廃藩置県の年に大門が解体され、1876年 (明治9)ころまでに、ほとんどの城の建物が姿を消すこととなります。
(松平文庫学芸員 吉田信也(よしだ しんや)
(『広報しまばら』平成27年9月号「ふるさと再発見」)
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建物のない島原城本丸の様子 |