島原城址(せき)保存運動
明治に入り、島原城の土地は民間に払い下げられます。本丸だけを見ても複数の地権者がいて、宅地や畑地としてそれぞれ個々に利用されていました。
1913年(大正2)の終わりごろの新聞に、島原城址の保存についての記事が登場します。
島原城の史跡保存の動きが、今ある資料からうかがえる最も古い事例です。
その動きをリードしていたのは、当時の南高来郡長であった小野七五三蔵(おの しめぞう)でした。
小野は今の大分県にある旧島原藩領の出身で、先祖は宇都宮より移住し、祖父の代まで藩から禄を受けていた人物でした。郡長となって以来、目に留まっていた城址が廃墟に映っていたことを憂い、城址を買い上げて保存したいと考えるようになり、公費による城址の買い上げ交渉に着手します。
ところが、買い上げ後の利用についての案を記事から拾い上げると、公園(記事には「公共の遊園地」とある)のほか、果樹園や種苗園、あるいは藩祖を祀る神社を建て、南堀端に鳥居を作り橋を架けるという案までありました。往時の城の姿をとどめるという、今の史跡保存とは発想が大きく異なっています。そして、それは小野が目指していたものでもありませんでした。
結局、買い上げの金額に折り合いがつかなかったことで、この動きは立ち消えとなったようです。地域にとって必要なものが何なのかを、現代にもなお問いかけているような出来事です。
(松平文庫学芸員 吉田信也(よしだ しんや))
(『広報しまばら』平成27年11月号「ふるさと再発見」)
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島原時報(大正2年12月16日付)抜粋 |